緒方道平
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緒方 道平(おがた みちひら、1846年6月3日(弘化3年5月10日)[1] - 1925年(大正14年)7月23日[2])は、明治時代の日本の山林官僚。オーストリアで山林学を修めた。次男は医学者の緒方大象、三男はジャーナリスト・国会議員の緒方竹虎、四男は医師の緒方龍。
生年月日 | 1846年6月3日(弘化3年5月10日) |
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出生地 | 備中国下道郡矢田村(現・岡山県倉敷市) |
没年月日 | 1925年7月23日(79歳没) |
配偶者 | 久重(緒方郁蔵(研堂)長女) |
子女 |
緒方雄平(長男) 緒方大象(次男) 緒方竹虎(三男) 緒方龍(四男) |
経歴
編集備中国下道郡矢田村(現・岡山県倉敷市)において郷士であった父妹尾康信の三男として生まれた[1]。
1866年(慶応2年)、摂津国名塩村の蘭医伊藤慎蔵に師事し、次いで伊藤の師である大阪の緒方洪庵について蘭学を学んだ。ここで蘭学者緒方研堂から子弟を託され、研堂の養子となって緒方姓を名乗ることとなる。1872年(明治5年)、緒方は上京し、ドイツ語通訳としてウィーン万国博覧会で日本館を出展する田中芳男、津田仙、佐野常民らに随行してオーストリアに渡航した。このときの渡航には、陶芸家のゴットフリード・ワグネルや、医師のフィリップ・フランツ・フォン・シーボルトの長男アレクサンダー、二男ハインリヒも参加している[1]。次いで佐野の命によってマリヤブルン農業森林高等学校で植樹法、伐採法、森林法および木材学を学習したたうえ各地を視察し、1874年11月に帰国した[1]。
1875年(明治8年)からは、松野礀とともにドイツ・オーストラリアの山林学を極めたものとして、地理寮山林課に勤めた。
1880年(明治13年)には、太政官(政表)、統計院に務める。1885年(明治18年)まで統計第六仮課長[3]。
1887年(明治20年)5月、山形県に書記官として赴任した[4]。1890年(明治23年)11月に山形県参事官となり、1892年(明治25年)11月に福岡県書記官に転じる[2]。1897年(明治30年)5月、依頼免官[5]。
その後、福岡農工銀行の創立に携わり、1898年(明治31年)の創業から1921年(大正10年)に同行が日本勧業銀行に吸収合併されるまで頭取を務めた[2]。
脚注
編集- 出典
- ^ a b c d 長池敏弘. “松野礀と緒方道平―明治林政創成期における二人の役割―(上)”. 2025年1月2日閲覧。
- ^ a b c 長池敏弘. “松野礀と緒方道平―明治林政創成期における二人の役割―(下)”. 2025年1月2日閲覧。
- ^ 奥積雅彦「統計の黎明期を支えた太政官(政表部門)・統計院の職員」。総務省統計局。
- ^ 官吏進退・明治二十年官吏進退二十九・府県(一)「林務官緒方道平山形県転任ノ件」。
- ^ 任免裁可書・明治三十年・任免巻十二「認可裁可書」。
参考文献
編集- 長池敏弘「松野礀と緒方道平 - 明治林政創成期における二人の役割」『林業経済』、林業経済研究所、doi:10.19013。
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