緑衣の鬼
『緑衣の鬼』(りょくいのおに)は、 イーデン・フィルポッツの長編小説、「赤毛のレドメイン家」の筋書を元に、江戸川乱歩が日本向けに翻案・脚色・再構成した長編小説である。
あらすじ
編集探偵作家の大江白虹とその友人の新聞記者の折口幸吉は、ある初秋の夜、銀座で笹本芳枝という女性がサーチライトの影絵で脅されている場面に遭遇した。芳枝を代々木の自宅まで送っていった二人は、夫の童話作家、笹本静雄が得体の知れぬ何者によって脅迫されている事実を知り、笹本夫妻を護衛することを誓うが、翌日、笹本家を一人先に訪問した折口は、笹本の遺体を発見し、彼を殺害したと思しき縮れ毛の黒マントを身に付けた緑衣の怪人物によって昏倒させられてしまう。遅れて笹本邸に辿り着いた大江は折口を介抱したが、そこには既に笹本の遺体はなく、夫人の芳枝は怪人物によって拉致された後だった。
大江は芳枝の伯父にあたる夏目菊次郎の宅を訪問し、そこで御用聞きの男より、別居中の菊次郎の息子、太郎の存在を知る。ほどなくして外出した菊次郎を大江は尾行し、太郎の宅を見つけた大江は、使用人の老女から、太郎が芳枝に思いを寄せていた情報を得る。
笹本家の事件が起こった同じ夜、麻布の劉ホテルに、緑色の盛装をした柳田一郎と名乗る青年紳士が宿泊した。宿泊四日目の朝に、入浴中の部屋の清掃をボーイに依頼したが、その際にボーイによって、彼の所持品であるトランクの中から、行方不明の笹本芳枝が発見された。異変を察知されたと気づいた柳田によってボーイは昏倒させられたが、間一髪到着した警察によってボーイと芳枝は救助された。が、またしても怪人物は逃亡してしまった。
怪人物は夏目太郎、動機は芳枝への叶わぬ恋と断定されてから、しばらくたったのち、大江の元に笹本芳枝から手紙が届いた。そこには現在、彼女が夏目菊次郎とともに伊豆半島のI温泉地に近いSという海岸にある別荘で暮らしていることを記されており、大江を夏目家の別荘に招待するものであった。それに応じた大江は、廃墟となっている水族館に夏目太郎と思しき人物が潜んでいることを知り、芳枝とともにのぼった別荘の近隣の見晴台にある望遠鏡から実際にその姿を目撃し、正体を突き止めようと、芳枝を先に帰した後で、探険に赴くが、何も見つけることができなかった。だが、その帰り道で再度、見晴台の望遠鏡から山の麓を覗いたところ、またしても怪人物に拉致された芳枝の姿を目にする。芳枝の失踪を確認した大江は、菊次郎の秘書、山崎とともに水族館に向かうが、そこでさらに怪人物を取り逃がし、山崎とともに水族館の水槽の中で悶えている芳枝を救助した。
その後、太郎からの伝言を受けた菊次郎は赴いた洞窟で殺害され、同じ頃に丸の内の大同銀行の貸金庫からは腐乱した、笹本静雄と推定される死体が発見された。
再度、身寄りを失った芳枝は、山崎とともに菊次郎の兄に当たる粘菌学者の夏目菊太郎に引き取られ、和歌山県のK町で暮らすことになったが、そこにも夏目太郎の影が出現した。そのことを知らせる電報が菊太郎から大江に送られ、さらに菊太郎の依頼により、犯罪研究家の乗杉龍平をともなうことが条件とされた。
折口の協力により、乗杉と面会した大江は、乗杉が菊太郎との交流からも事件に興味を持っていることを聞かされる。乗杉と大江は早速菊太郎の宅へと向かっていった。
概要と解説
編集本作は1936(昭和11年)、講談社の『講談倶楽部』に1月号から12月号まで連載されたものである。前年、乱歩は翻訳家の井上良夫からイーデン・フィルポッツの『赤毛のレドメイン家』を紹介されて感銘を受け、娯楽雑誌の連載物としてその大筋を取り入れ、乱歩流儀に書き改めた作品である。そのため、乱歩作品の中では一貫した筋のある作品となっている[1]。
江戸川乱歩は評論『鬼の言葉』で『レドメイン家』を恋愛を軸とし、論理と感情が有機的に融合しているという点で、『トレント最後の事件』を越えていると評している。1935年(昭和10年)10月に『レドメイン家』は『世界探偵名作全集』の第一巻として刊行されているが、その刊行から時を置かずして、本作は連載されている。連載予告では『闇の声』として発表されている[2]。
登場人物
編集- 大江白虹(おおえ はっこう)
- 探偵作家。35、6歳。痩せ型で背が高い。
- 折口幸吉(おりぐち こうきち)
- 帝国日日新聞の警視庁詰めの社会部記者。30歳前後。白虹の友人。
- 笹本 芳枝(ささもと よしえ)
- 折口の妹の学生時代の友人。旧姓、絹川。夏目菊三郎の娘。
- 笹本 静雄(ささもと しずお)
- 芳枝の夫で、童話作家。
- 夏目菊次郎(なつめ きくじろう)
- 芳枝の伯父。50歳を越えている。数社の会社の大株主、名義上の重役もつとめている、配当生活者。笹本の結婚で芳枝を義絶するが、笹本家の事件の後、芳枝を引き取る。
- 夏目太郎(なつめ たろう)
- 菊次郎の息子。27、8歳。菊次郎とは別居中。緑色に固執し、所持品をすべて緑色に染める嗜好がある。芳枝に思いを寄せている。
- 夏目菊太郎(なつめ きくたろう)
- 芳枝の伯父で、菊次郎の兄。粘菌学者で、独身。
- 夏目菊三郎(なつめ きくさぶろう)
- 芳枝の父。故人。身持ちが悪く、借財だけを残して、妻ともどもこの世を去っている。
- 山崎(やまざき)
- 菊次郎の秘書の青年。美貌で、「ギリシャ人」・「アポロ」と形容され、少し低能のような印象を与える。芳枝の護衛係。
- 丸井定吉(まるい さだきち)
- S村の中年の漁師。夏目太郎からのメッセージを菊次郎に届けている。
- 木下(きのした)
- 警視庁の捜査係長の警部。白虹の知人。
- 乗杉龍平(のりすぎ りゅうへい)
- 夏目菊太郎の知人の奇人。雑学者。40歳前後。池袋に近いN町の土蔵で暮らしている。警視庁捜査科の刑事を勤めていたこともある。犯罪事件の容疑者そっくりの扮装をし、容疑者の心理をつかむという癖がある。
- K町の警察署長
- 夏目菊太郎邸での事件を担当。
- 緑衣の怪人
- 芳枝を付け狙う黒マント・緑衣の怪人物。柳田一郎と名乗り、劉ホテルの客となったり、代々木の笹本邸・伊豆半島のS村、和歌山県のK町で事件を起こす。
備考
編集- 『探偵小説四十年』によると、江戸川乱歩は1934年1月頃、作品執筆のため、チェコスロヴァキア公使館近くの「張ホテル」と呼ばれる麻布区の「木造二階建ての洋館の小さなホテル」に長期滞在している。このホテルは元々は西洋人向けの住宅であったものをホテルに改装したらしく、ボーイに訊ねたところ、客はヨーロッパ人と支那人が半々位で、日本人は殆ど利用しないということであったという。前年4月に下宿屋「緑館」を手放し、芝区車町の土蔵つきの借家に転居したが、騒音に悩まされたため「市内放浪」してこのホテルを発見したという。だが、当時の連載作品『悪霊』執筆が進まず、一ヶ月契約であったところを、半月で飛び出してしまっている。ただし、ホテル自体にはかなり魅了されていたらしく、本作に登場する「劉ホテル」は「張ホテル」がモデルであろうと推定されており、作中には、柳田が日本人以外の宿泊客がいるかと訊ね、ボーイがチェコスロヴァキアと支那とイギリス人の夫妻のみが泊まっていると説明する場面がある。「張ホテル」と思しき建物は後年の『影男』にも登場する[3][4]。
- 本作の登場人物には「折口」・「柳田」など、民俗学者の影響と思われる命名がなされており、夏目菊太郎老人には民俗学者南方熊楠をモデルにした形跡が見られる。熊楠は乱歩の友人で画家の岩田準一と、1941年(昭和16年)9月まで、熊楠52通、準一68通に及ぶ、膨大な書簡を交換しており、その中には準一と乱歩の「衆道歌仙」にまつわるものもあった。熊楠・準一ともに男色研究家である。この関係が、夏目菊太郎と乗杉龍平との交流に繁栄されており、また乱歩自身の民俗学者への高い評価を表しているとも言える[5][6]。
- 劈頭の笹本芳枝が銀座上空に巨人の影を見て失神するというパフォーマンスは、少年物の『妖人ゴング』でもくり返されており、また『宇宙怪人』の円盤の描写にも現れている[7]。
参考文献
編集- 『江戸川乱歩全集 第11巻 緑衣の鬼』(光文社文庫)
- 『緑衣の鬼』(創元推理文庫)
- 『江戸川乱歩大事典』(勉誠社)
- 『乱歩とモダン東京 通俗長編の戦略と方法』(筑摩選書・著:藤井淑禎)
- 『乱歩「東京地図」』(作品社・著:富田均)