大原重実
幕末の公家、明治期の官僚・華族
(綾小路俊実から転送)
大原 重実(おおはら しげみ)は、幕末の公家、明治期の官僚・華族。旧名・綾小路俊実(あやのこうじとしざね)[2]。
時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 天保4年9月12日(1833年10月24日) |
死没 | 明治10年(1877年)9月6日[1] |
改名 | 常丸(幼名)[1]→綾小路俊実[2]→大原重実 |
主君 | 仁孝天皇→孝明天皇→明治天皇 |
氏族 | 大原家→綾小路家→大原家 |
父母 | 父:大原重徳、養父:綾小路有長 |
兄弟 | 重実、重朝、重克 |
妻 | 白川国子(白川資敬の娘)、松平頼胤の娘 |
子 | 重貴、養子:重朝 |
経歴
編集山城国京都で、大原重徳の息子として生まれる[1]。幼名は常丸。
天保8年1月(1837年)叙爵し、その後、備後権介に任官[1]。安政元年12月(1855年)綾小路有長の養子となり俊実と改名[1][2]。侍従に就任[1][2]。文久3年3月(1863年)濫りに諸藩士と交わったことにより閉居を命ぜられた[1][2]。
慶応4年1月(1868年)滋野井公寿と共に赤報隊の盟主に擁立されたが、活動中の金穀強要などを咎められ召喚令が出され帰京した[2]。同年1月24日(2月17日)大原家復籍と相続を命ぜられ、名を重実に復した[2]。同年2月30日(3月23日)海軍先鋒となり、以後、海軍先鋒総督、江戸鎮台補、関八州監察使、左近衛権少将、権弁事、弁官事、東北諸藩賞罰取調掛、皇居造営御用掛、公議所議長、兼制度寮副総裁などを歴任[3]。明治2年6月2日(7月10日)戊辰の戦功により賞典禄100石を永世下賜された[3]。以後、領客使、第一次酒田県知事、外務省七等出仕、同六等出仕などを歴任[3]。1873年1月17日、父・重徳の隠居により家督を相続[4]。1875年12月5日、外務少丞、1877年1月11日、外務少書記官に就任した[3]。同年9月、自邸で強盗に襲われ死去した[1][2]。
系譜
編集脚注
編集参考文献
編集- 修史局編『百官履歴 上巻』日本史籍協会、1928年。
- 日本歴史学会編『明治維新人名辞典』吉川弘文館、1981年。
- 霞会館華族家系大成編輯委員会『平成新修旧華族家系大成』上巻、霞会館、1996年。
- 安岡昭男編『幕末維新大人名事典』上巻、新人物往来社、2010年。
公職 | ||
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先代 津田信弘 権知事 |
酒田県知事 1870年 |
次代 坊城俊章 山形県知事 |
先代 秋月種樹 |
公議所議長 1869年 |
次代 (欠員→)大原重徳 集議長官 |