紀藤織文
紀藤 織文(きとう おりぶみ、1858年8月22日〈安政5年7月14日[1]〉 - 1947年〈昭和22年〉8月17日[2])は、日本の政治家、実業家。
経歴
編集1858年、長州藩の永代家老福原家の家臣の家に生まれる[1]。
父は紀藤海蔵、兄に紀藤宗介(後の宇部共同義会初代会長)、紀藤礼蔵らがおり、1878年に家督を相続し、前名の織人から織文に改名した[3]。
長じて和仏法律学校に入学して法律学を修め、郷土の民政に参与し、宇部村長[4]、厚狭郡会議員、山口県会議員などに選ばれ、地方政治に貢献した[1]。一転して宇部村の実業が盛んとなったものの、殖産興業に必要な銀行がないことに憤りを感じ、1912年(明治45年)に宇部銀行を設立し、その初代取締役頭取に就任した[5]。他にも一般公共の事業に尽くすことも多大であった。また文事の趣味があり詩歌をたしなみ凌雲の号があった[6][7]。宇部共同義会の会長もつとめた[8]。
家族
編集脚注
編集出典
編集- ^ a b c 井関九郎撰『現代防長人物史 人』発展社、1918年、き8頁。国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 「近世防長人名辞典 増補」国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース
- ^ 職員録 明治32年現在(乙)306頁
- ^ 人物中心に見た西日本産業変遷記496頁
- ^ 吉田祥朔『増補近世防長 人名辞典』マツノ書店、1976年、99-100頁。
- ^ 山口県宇部地域における泊園書院出身者の事業活動の一考察―渡辺祐策を支えた名望家を中心に―横山俊一郎
- ^ 宇部共同義会五十年誌(昭和11年9月25日)
- ^ 日本研究のための歴史情報『人事興信録』データベース