紀元前589年
年
紀元前589年(きげんぜん589ねん)は、西暦(ローマ暦)による年。紀元前1世紀の共和政ローマ末期以降の古代ローマにおいては、ローマ建国紀元165年として知られていた。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前589年と表記されるのが一般的となった。
世紀 | 前7世紀 - 前6世紀 - 前5世紀 |
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十年紀 |
前600年代 前590年代 前580年代 前570年代 前560年代 |
年 |
前592年 前591年 前590年 紀元前589年 前588年 前587年 前586年 |
他の紀年法
編集できごと
編集中国
編集- 斉軍が魯の北郊に侵攻し、龍を攻め落とし、巣丘に達した。
- 衛の孫良夫・石稷・甯相・向禽らが魯を救援するために斉に侵入し、新築で敗戦した。
- 晋の郤克・衛の孫良夫・曹の公子首らが魯を救援するために出兵し、斉軍と鞍で戦ってこれを破った。
- 斉の頃公は国佐を晋軍のもとに派遣して講和を求めた。晋の郤克はこれに応じ、国佐と袁婁で盟を交わした。斉は汶陽の田地を魯に返還した。
- 楚と鄭の軍が衛に侵攻した。
- 楚の子重(公子嬰斉)・魯の成公・蔡の景侯・許の霊公・秦の右大夫説・宋の華元・陳の公孫寧・衛の孫良夫・鄭の公子去疾・斉の大夫らが蜀で盟を交わした。
- 晋の景公は鞏朔を周に派遣して斉の捕虜を献上させようとしたが、定王はその非礼を咎めて面会しなかった。