粟飯原秀
大日本帝国陸軍軍人 (1889-1965)
粟飯原 秀(あいはら ひいづ、1889年(明治22年)12月1日 - 1965年(昭和40年)8月18日[1])は、大日本帝国陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
粟飯原 秀 | |
---|---|
生誕 |
1889年12月1日 日本 徳島県 |
死没 | 1965年8月18日(75歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1911年 - 1939年 |
最終階級 | 陸軍少将 |
経歴・人物
編集徳島県出身[1]。1911年(明治44年)陸軍士官学校第23期卒業、陸軍歩兵少尉に任官[1]。のち1916年(大正5年)陸軍大学校に入校し1919年(大正8年)同校第31期卒業[1]。
印度駐箚武官を経て、1934年(昭和9年)陸軍歩兵大佐となり、翌年の1935年(昭和10年)には参謀本部附、歩兵第21連隊長となった[2][3][4][5]。連隊長(第5師団、歩兵第21旅団)として支那事変に出征し、平型関の戦いにて苦戦した[1]。
脚注
編集参考文献
編集- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。
- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。