篠崎 昇之助(しのざき しょうのすけ、1879年[1] - 1951年7月12日[2])は、日本、米国、朝鮮のジャーナリスト。玄洋社社員[2]。
篠崎甚三郎の長男として福岡県に生まれる。1900年、福岡県中学修猷館を経て[3]、1910年早稲田大学政治経済学科を卒業[4]。
米国ニューヨークの邦字新聞日米週報、日英週報の記者を務めた後、九州日報(西日本新聞の前身)主筆に就任。1931年釜山日報社(戦前)の副社長兼主筆に就任する[1][2]。
日本硬質陶器(現・ニッコー)取締役も務めている[4]。