篠原一孝
日本の戦国時代~江戸時代初期の武将。旧姓青木。加賀藩重臣篠原長重養子で、篠原出羽守家(後の監物家)初代当主。従五位下肥前守・出羽守
篠原 一孝(しのはら かずたか、永禄4年(1561年) - 元和2年7月22日(1616年9月3日))は、戦国時代から江戸時代初期にかけての武将。加賀藩前田家の家臣。篠原弥助長重の養子。妻は佐脇良之(前田利家の弟)の娘。子は主膳、出羽、重一、虎之助。義弟に篠原長次。幼名は虎。通称は勘六。官位は従五位下・肥前守、出羽守。
生涯
編集永禄4年(1561年)、誕生。生家は青木家。前田利家の妻・まつの従兄弟・篠原弥助長重の養子となった。
若い頃から利家に仕え、北陸平定戦、末森城攻防戦、小田原征伐などに従軍した。石垣普請の名人でもあり、金沢城の河北門などを普請したといわれている。天正19年(1591年)6月、従五位下・肥前守に叙任、文禄2年(1593年)、出羽守に遷任。人持組頭となる。慶長4年(1599年)、利家が大坂で死去した際、嫡男利長に充てた遺言で、篠原は「片口なる(口が堅い)律義者」なので重用するように指示し[1]、その後利家の棺を領国の加賀国に帰した。利長の時代には横山長知や奥村栄明と共に執政として国政を司り、知行は1万5650石を領し、大坂の陣にも参陣した。
元和2年(1616年)死去。長男の主膳は早世し、次男の出羽が家督と1万250石の知行を継ぐが、その子の岩松が早世したため断絶した。三男の重一は1000石で分家し、出羽の死後に2000石を加増された。四男の虎之助は1000石で分家するも早世した。
脚注
編集- ^ 木越隆三「慶長期加賀藩家臣団の構成と動向」(初出:棚町知弥・鶴崎裕雄・木越隆三 編『白山万句 資料と研究』(白山比咩神社、1985年)/所収:大西泰正 編『シリーズ・織豊大名の研究 第三巻 前田利家・利長』(戎光祥出版、2016年) ISBN 978-4-86403-207-0)
- ^ “歴史のまちしるべ標柱一覧”. www4.city.kanazawa.lg.jp. 2021年12月8日閲覧。