筑紫満門
筑紫満門(つくし みつかど)は、室町時代から戦国時代にかけての武将。少弐氏、大内氏の家臣。
時代 | 室町時代 - 戦国時代 |
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生誕 | 不明 |
死没 | 大永4年1月18日(1524年2月22日)?[1] |
別名 | 孫次郎[2]、下野入道[2] |
官位 | 下野守[3]、筑後守[4] |
主君 | 少弐教頼→政資→大内義興 |
氏族 | 筑紫氏 |
父母 | 父:筑紫秀門?[5]または筑紫教門? |
子 | 尚門[6]/正門[4][5]、馬場頼周室 |
出自
編集筑紫氏は足利直冬の末裔とも少弐氏の庶流ともいう。筑前国・肥前国にかけて勢力を築いた大身。
室町・戦国期の筑紫氏の系図は諸説あり、詳細不明な点が多い。
略歴
編集満門は当初、少弐氏に仕えており、嘉吉元年(1441年)8月24日に少弐教頼から[7][8]、文明11年(1479年)11月19日には教頼の子・政資から、筑前や肥前・筑後国等にある所領を安堵されている[9]。また、九州探題の渋川氏の勢力を駆逐するのに貢献したが、延徳3年(1491年)に筑後犬塚城を大友政親によって追われた渋川刀祢王丸を保護している[10]。
大内氏の九州侵攻によって次第に劣勢となった少弐氏が、明応6年(1497年)に政資が自刃した事により一時滅亡すると、満門は東尚盛らと共に大内義興に降伏し許され、以後は大内方として北九州での筑紫氏の立場を強化した。翌明応7年(1498年)2月24日には大内方として肥前で尚盛と共に、九州千葉氏の千葉胤資の遺子・胤繁と戦い退けている[11]。大永元年(1521年)、宝満岳の上宮を再建している[12]。
大永4年(1524年)、少弐氏を再興させた少弐資元の家臣であり娘婿・馬場頼周からの寝返りの誘いを拒否し逆に頼周を大内氏への帰順を促そうとしたため、頼周の怒りを買い娘や孫への面会を餌に頼周の居城・綾部城に誘い出され、殺害されたとされている。
脚注
編集出典
編集- 『寛政重修諸家譜』
- 『筑紫古文書』
- 『筑紫系図』(『諸系図』所載)
- 『北肥戦誌』(千葉胤繁帰入于小城郡事、八 筑紫満門為馬場頼周被討事)
- 『歴代鎮西志』