筑紫歌壇(つくしかだん)とは奈良時代に大宰府で活躍した歌人たちの集団を指す。日本最古の歌集である『万葉集』にも多くの歌を残した。

福岡県太宰府市・大宰府政庁跡前にある大伴旅人の歌碑

大宰府政庁跡周辺の地域には。筑紫歌壇にちなむ和歌の歌碑が多く点在している[1]

なりたち

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神亀5年(728年)に大宰師だざいのそちとして着任した大伴旅人が天平2年(730年)12月に大納言に任ぜられ上京するまでと、山上憶良が帰京する天平3年(731年)の間に活動した歌人集団を指す[2]。特に天平2年に大伴旅人邸で開かれた「梅花の宴」[3]が広く知られている。

考察と研究

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作品の特徴としては、序文(漢文表記)と和歌を組み合わせた和漢混交の形式がみられる。宴に関する歌が多くみられ、土着の歌は少ない[4]。梅花の宴のような多数の人物の集まりによる歌の集団はそれまでの文献においても例がみられない[5]

関連する人物

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福岡県太宰府市・観世音寺にある満誓の歌碑

筑紫歌壇は、大宰府の長官である大宰帥であった大伴旅人を中心に、同じ頃筑前国守として大宰府に赴任していた山上憶良を始め、沙弥満誓小野老葛井大成・大伴百代・麻田陽春・大弐紀卿(紀朝臣男人)・少監土氏百村(土師宿祢百村)、大伴坂上郎女などの人々で構成される[6]。大伴旅人の正妻である大伴郎女は、帥赴任後すぐに大宰府で他界しており、旅人は妻を偲ぶ挽歌を詠んでいる[7]。大伴郎女亡き後、大宰府に下ってきたのが旅人の妹である大伴坂上郎女であった。女性歌人として最も数多くの歌を『万葉集』に遺している[8]

名称について

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筑紫の表記で「つくし」と発音する場合、万葉時代における大宰府中心の九州の名を指し[9] 、現代の「ちくし」発音とは、年代的な違いを表現する。「つくし」の地名としてのエリアは、ヤマト王権が中部九州までを勢力下に収めた4世紀末から5世紀後半[10]、現在「筑紫野市」などに名が残っている、筑前・筑後を合わせた地域を指す[9]。そのエリアについて『日本書紀』で「筑紫」との表記で書かれた。『万葉集』では「都久志」の表記もあることから、筑紫の読み仮名も「つくし」として施されている[11]。後にこの歌人グループの活動が「筑紫歌壇」と呼び習わされるようになった[12]:12。なお、筑紫歌壇にちなんだ「筑紫歌壇賞」の「筑紫」の読みは「ちくし」である[13]

『万葉集』の中には「歌壇」という名称はなく、「筑紫歌壇」とは近代の短歌結社の呼称を便宜的に踏襲したものである[14]。歌壇という語句が辞書に掲載されたのは第二次世界大戦後であるとする資料がある[15]

脚注

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  1. ^ 万葉集筑紫歌壇”. 太宰府市. 2025年3月8日閲覧。
  2. ^ 前田淑『大宰府万葉の世界』弦書房、2007年7月10日、187頁。ISBN 978-4-902116-78-6 
  3. ^ 中西進 編『大伴旅人 人と作品』おうふう、1998年10月15日、187頁。ISBN 4-273-03022-5 
  4. ^ 林田正男『万葉集筑紫歌の論』桜楓社、1983年1月、53頁。NDLJP:12452615 
  5. ^ 林田 2019, pp. 43–44.
  6. ^ 林田 1994, p. 44.
  7. ^ 林田 1994, p. 45.
  8. ^ 森弘子『大宰府と万葉の歌』海鳥社、2020年1月、23頁。ISBN 9784866560571 
  9. ^ a b 筑紫豊『筑紫萬葉抄』文献出版、1981年1月29日、11頁。NDLJP:12451993 
  10. ^ 阿部猛 編『日本古代史研究事典』東京堂出版、1995年8月30日、11頁。ISBN 4490103964 
  11. ^ 小島憲之 校注・訳、木下正俊 校注・訳、佐竹昭広 校注・訳『萬葉集』 1、小学館日本古典文学全集 2〉、1975年10月31日、332頁。ISBN 4-09-657002-8 
  12. ^ 德田淨「萬葉集巻五小観」『奈良文化』第24号、竹柏会大和支部、1933年6月、5-13頁、NDLJP:1517287/6 
  13. ^ 筑紫歌壇賞”. 隈財団. 2025年3月8日閲覧。
  14. ^ 林田 2019.
  15. ^ 伊藤博『古代和歌史研究』 5(万葉集の表現と方法 上)、塙書房、1975年11月10日、75頁。NDLJP:12452188 

参考文献

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外部リンク

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