竹野鉱山
竹野鉱山(たけのこうざん)は、兵庫県豊岡市竹野町(旧城崎郡竹野町)にあった鉱山。
竹野鉱山 | |
---|---|
竹野鉱山坑道出入口 | |
所在地 | |
所在地 | 城崎郡中竹野村(現:豊岡市竹野町) |
都道府県 | 兵庫県 |
国 | 日本 |
座標 | 北緯35度37分02.15秒 東経134度44分23.67秒 / 北緯35.6172639度 東経134.7399083度座標: 北緯35度37分02.15秒 東経134度44分23.67秒 / 北緯35.6172639度 東経134.7399083度 |
生産 | |
産出物 | 金、銀 |
歴史 | |
開山 | 1905年 |
閉山 | 1949年 |
所有者 | |
企業 | 久原鉱業株式会社 |
プロジェクト:地球科学/Portal:地球科学 | |
概要
編集竹野鉱山は現在の兵庫県豊岡市竹野町にあった鉱山で、金や銀を産出していた。「たけのこ村」管理棟の裏山に精錬所があった[1]。
農業の合間に、女性も含めて竹野鉱山へ出稼ぎに行った[2]。
年表
編集- 1905年(明治38年)以前 - 中竹野村轟字阿古谷で金・銀鉱脈発見[3]。
- 1905年(明治38年) - 東京の河野蘭が採掘許可を得た[3]。
- 1912年(大正元年) - 久原鉱業株式会社が買収し、本格的な採掘開始[3]。
- 1914年(大正3年) - 火力発電による空気圧搾機稼働開始、職員住宅に電灯設置[3]。
- 1920年(大正9年) - 下塚地区の奥虫谷で金鉱脈が発見され、大谷川の左岸に沿って軌道新設[3]。
- 1923年(大正12年) - 阿古谷坑の採掘が終わり、東大谷地区に鉱山の主力が移った[3]。
- 1931年(昭和6年) - このころ、268人(一戸当たり4.12人)が鉱山宿舎に居住[4]。
- 1939年(昭和14年) - 東大谷地区の斜面に精錬所完成[3]。
- 1943年(昭和18年)4月1日 - 太平洋戦争に伴って精錬所取り壊し[3]。
- 1949年(昭和24年) - 竹野鉱山閉鎖[3]。
施設
編集竹野鉱山周辺には病院・浴場・理髪店があったほか、大集会所では映画の上映も行われていた[1]。
製錬所ができる前は、鉱石が選鉱ののち積出場に送られ、馬のトロッコにより竹野駅西側の鉱石専用プラットホームに運ばれ、竹野駅からは貨物車に積み替えられて大分県の佐賀関精錬所で精錬された[3]。
ギャラリー
編集-
竹野鉱山選鉱場跡に伴う構造物
-
竹野鉱山選鉱場跡と平坦面
-
竹野鉱山に伴う石積み
-
竹野鉱山坑道内
-
竹野町東大谷の山神社
出典
編集参考文献
編集- 菊池武「第三章 生産・労働と分配/第十二節鉱業(鉱山)」『竹野町史』 民俗・文化財・資料編、1991年3月、132-133頁。 NCID BN0535641X。
- 中竹野地区コミュニティ 編『なかたけの文化歴史魅力』2020年1月。
- 日本鉱山協会 編「竹野鉱山 沖ノ浦鉱山」『日本鉱山協会資料』 第8輯 金属鉱山に於ける採鉱法と落磐との関係調査報告、日本鉱山協会、1929年9月、76-82頁。NDLJP:1078211/1/44。
- 日本鉱山協会 編「竹野鉱山」『日本鉱山協会資料』 第17輯 鉱夫宿舎の建築に関する調査報告、日本鉱山協会、1931年3月、376-378頁。NDLJP:1078267/1/196。
- 平岡重徳「第三章 竹野の大正期/第二節産業の近代化」『竹野町史』 通史編、1990年3月、737-761頁。 NCID BN0535641X。