竹本摂津大掾

日本の義太夫節の太夫

竹本 摂津大掾(たけもと せっつだいじょう、1836年4月30日天保7年3月15日〉 - 1917年大正6年〉10月9日)は、日本義太夫節の太夫。本名は二見亀次郎。初名は南部太夫と名乗っている。1860年(万延元年)には二代目竹本越路大夫を襲名。明治時代文楽を代表する一人である。

たけもと せっつだいじょう

竹本 摂津大掾
生誕 吉太郎
1836年4月30日天保7年3月15日
日本の旗 日本摂津国順慶町(現・大阪府大阪市中央区
死没 1917年大正6年)10月9日(82歳没)
日本の旗 日本兵庫県
国籍 日本の旗 日本
別名 二見金助、竹本南部太夫 (初代)、竹本越路大夫 (2代目)、竹本春太夫 (6代目)
職業 文楽
活動期間 1847年 - 1913年
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概要

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1836年に摂津国大阪府)に生まれる。11歳の頃から浄瑠璃をやり始め、鶴澤清七 (3代目)に師事。その後、客からその美声と品格が褒められ、全盛期を迎えた。また、小松宮彰仁親王から摂津大掾の名を貰っている。楠昔噺を最後に引退。明治時代文楽を代表する一人である。1917年に兵庫県で死去。

生涯

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浄瑠璃以前

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大阪府塗物問屋の子として生まれる。幼名吉太郎。しかし、すぐに二見伊八の養子となり、二見亀次郎と名乗る。11歳の頃に浄瑠璃をやり始める。竹沢竜之助三味線を学び、後に鶴澤清七 (3代目)から学んだ。1858年安政5年)に竹本春太夫の門に入り、初名は竹本南部太夫と名乗った。また、万延元年には竹本越路大夫 (2代目)を襲名した。

浄瑠璃時代

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1865年慶応元年)に文楽座で初舞台をした。また、1877年(明治10年)には名人の豊沢団平 (2代目)を相三味線に人気が高まる。1883年(明治16年)には文楽座の櫓下となる。 彦六座に対抗し、豊沢広助 (5代目)と吉田玉造 (初代)と紋下として文楽座を支え、その美声と品格が認められ、人形浄瑠璃での全盛期を築く。また、1903年(明治36年)には竹本春太夫 (6代目)と名乗る。また、小松宮彰仁親王から、摂津大掾の名を貰い、「妹背山」、「本朝廿四孝」、「先代萩」を語り、およそ75日間の大入りを果たした。後に1913年(大正2年)に「楠昔噺」を最後に人形浄瑠璃を引退した。その後兵庫県で死去。

実績

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一時、竹本寿太夫の襲名を検討していた[1]

関連書籍

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レコード

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  • 「本朝廿四孝・十種香の段」 1905年(明治38年)

脚注

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  1. ^ 水谷不倒 竹本摂津大掾”. www.ongyoku.com. 2022年9月1日閲覧。