竹内浩三
竹内 浩三(たけうち こうぞう、1921年(大正10年)5月12日 - 1945年(昭和20年)4月9日)は、日本の詩人。三重県宇治山田市(現在の伊勢市)生まれ[1]。
経歴
編集宇治山田市吹上町(現・伊勢市吹上)に生まれた[1]。明倫小学校を卒業後、宇治山田中学校に進学[2]、中学在学中より友人と回覧雑誌を製作。小中学生時代はあまり勉強しなかったものの、上位3分の1には入る成績で、特に数学が得意であった[3]。よく人の物真似をして笑いをとっていた[3]。また漫画を愛し、夏目漱石の『坊つちやん』を漫画化したり、国産振興四日市大博覧会のポスターに応募して入選したりしていた[3]。1940年(昭和15年)日本大学専門部映画科に入学し、伊丹万作の知遇を得る[3]。1942年(昭和17年)6月、宇治山田中学校時代の友人中井利亮・野村一雄・土屋陽一と同人誌『伊勢文学』を創刊[3]。同年9月に日本大学を繰り上げで卒業し、入営[3]。久居(現・津市)で初年兵として1年の訓練の後、吉沼(現・茨城県つくば市)で落下傘兵として厳しい訓練を課される[3]1945年4月9日、フィリピン・ルソン島バギオ北方にて戦死[4][3](厳密には生死不明[5])。最終階級は上等兵[3]。墓所は伊勢市岩渕三丁目の一誉坊(いっちょぼ)墓地と朝熊山金剛證寺奥ノ院の供養墓の2か所あった[6]が、2005年(平成17年)に一誉坊墓地から朝熊山へ集約された[7]。遺骨や遺品は戦地から一切戻ってこなかったため、一誉坊墓地には姉の手で浩三の学生帽が埋葬された[6]。浩三の御霊は、御英霊として津市の三重縣護國神社に祀られている。[要出典]
入営中に記された日記(筑波日記)などに書き残された詩は、青年のみずみずしい感情を歌っている。
「骨のうたう」は、1942年8月3日の日付が書かれているが、1948年に中井利亮編『伊勢文学』第8号に「遺稿」として原型が掲載され、1956年中井利亮編『愚の旗―竹内浩三作品集』刊行に際して現在知られている形になった。また、「望郷」は1943年5月『伊勢文学』第6号初出。
2004年、稲泉連が評伝『ぼくもいくさに征くのだけれど 竹内浩三の詩と死』を発表し、第36回大宅壮一ノンフィクション賞を受賞。
2008年NHKにて、「ハイビジョン特集 シリーズ青春が終わった日 日本が見えない~戦時下の詩と夢・竹内浩三~」が放送された。
遺品は本居宣長記念館に寄贈されている。
著作集
編集- 『愚の旗―竹内浩三作品集』(私家版、1956年 / 復刻版・伊勢文化舎、2018年、ISBN 978-4900759565)
- 『竹内浩三全集』(新評論、1984年)
- 骨のうたう(ISBN 4-7948-3011-4)
- 筑波日記(ISBN 4-7948-3012-2)
- 『竹内浩三作品集』(新評論、1989年、ISBN 4-7948-0041-X)
- 『竹内浩三全作品集―日本が見えない』(藤原書店、2001年、ISBN 978-4894342613)
- 『戦死やあわれ』(岩波書店〈岩波現代文庫〉、2003年、ISBN 978-4006030728)
- 『定本 竹内浩三全集 戦死やあはれ』(藤原書店、2012年、ISBN 978-4894348684)
などがある。
親族
編集家族構成は両親と4歳年上の姉[1]。実家は裕福な呉服商であった[1]。なお、9歳で母を、中学卒業目前に父を亡くしている[2]。姉は日大の学費を送金して浩三の生活を支え、浩三の死後、遺稿集『愚の旗』を200冊限定で出版した[8]。