立林文二
立林 文二(たてばやし ふみじ、1904年(明治37年)3月20日[1] - 1966年(昭和41年)7月10日[2])は、日本の銀行家。三和相互銀行社長(現・トマト銀行)。岡山県新見市出身[3]。
たてばやし ふみじ 立林 文二 | |
---|---|
生誕 |
1904年3月20日 日本・岡山県阿賀郡刑部村 (現・新見市) |
死没 | 1966年7月10日(62歳没) |
国籍 | 日本 |
出身校 | 東京帝国大学法学部 |
職業 | 銀行家 |
団体 |
日本勧業銀行関係者 (現・みずほ銀行) |
肩書き |
三和相互銀行社長(第5代) (現・トマト銀行) |
経歴
編集生い立ち
編集1904年(明治37年)岡山県阿賀郡刑部村(現:新見市)に生まれる。1895年(明治28年)に旧制高梁中学(現:岡山県立高梁高等学校)へ進学し、その後、1922年(大正11年)第六高等学校文科甲類へ入学した[4]。1925年(大正14年)、同高校を卒業し、東京帝国大学法学部法律学科へ入学[5]、イギリス法を学び1929年(昭和4年)3月、同大学を卒業した[6]。
卒業後
編集大学卒業後、日本勧業銀行(現・みずほ銀行)へ入行し、大阪支店に配属となり、1935年(昭和10年)には、貸付課の書記に配属となった[7]。その後、名古屋支店次長を経て、山口にある徳山支店長となった。1953年頃(昭和28年)には、日本勧業銀行京橋支店の支店長[8]、その後、京都支店長となるが、1957年に依願退職した[9]。同社での活躍が認められ、退職後すぐに三和相互銀行(現・トマト銀行)の代表取締役(第5代)に就任した[10]。1966年(昭和41年)7月10日、代表取締役在任中に死去[2]。
脚注
編集- ^ 『大衆人事録 第24版 東日本篇』帝国秘密探偵社、1965年、p.774。
- ^ a b 『山陽相互銀行五十年の歩み』山陽相互銀行五十年史編集委員会、1982年、p.582。
- ^ 人事興信録 第15版 下, 人事興信所 編, 1948年
- ^ 第六高等学校一覧 自大正11至12年 p.146 文科甲類(高梁)立林文二 岡山
- ^ 東京帝国大学要覧 従大正14年 至大正15年 p.18 法学部法律学科 立林正二 岡山
- ^ 東京帝国大学要覧 昭和4年 p.389 立林文二 岡山
- ^ 日本勸業銀行職員名簿_昭和10年7月1日現在 p.27
- ^ “東京地方裁判所 昭和28年(ワ)8135号 判決 1955年8月27日 - 大判例”. minorusan.net. 2024年12月4日閲覧。
- ^ 金融財政事情 8(32)(357)夏季特別増大号;1957・8・5, 金融財政事情研究会, 1957-08
- ^ 閨閥博士 (2024年4月27日). “トマト銀行・歴代社長”. 閨閥学. 2024年12月4日閲覧。