窪田忠廉
窪田 忠廉(くぼた ただかど)は、戦国時代から江戸時代初期の武将。三枝守国の時に甲斐国石坂に住して、石坂を名乗る。忠廉の代にて、武田信玄の命にて窪田と改めた。武田家滅亡後、徳川家旗本になる。子が八王子千人同心9人の千人頭の一家となる。書籍によっては「久保田」とも称される。
時代 | 戦国時代 - 江戸時代初期 |
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死没 | 慶長18年5月20日(1613年7月7日) |
改名 | 石坂忠廉 |
別名 | 監物、越後 |
墓所 | 高乗寺(八王子市) |
主君 | 武田信玄、勝頼、徳川家康 |
氏族 | 三枝流窪田氏 |
子 | 忠知、娘(石坂勘兵衛の妻) |
略歴
編集最初は武田氏に仕え、天正10年(1582年)武田氏没落後は早期に徳川家康に仕え、甲州九口之道筋奉行に命じられる。天正12年(1584年)小牧・長久手の戦いに従軍。天正18年(1590年)徳川氏が関東に移ると、北条氏照の残党に備えて八王子に移り、子の窪田忠知が八王子千人同心9人の千人頭の一家となる。
参考文献
編集- 「寛政重修諸家譜」巻第千三百八十
- 賢甫義哲、「長楽寺永禄日記」、続群書類従完成会、2003年