稲葉四郎
稲葉 四郎(いなば しろう、1885年〈明治18年〉12月15日[1][2] - 1948年〈昭和23年〉3月13日[1][2])は、日本陸軍の軍人。最終階級は陸軍中将。
稲葉 四郎 | |
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生誕 |
1885年12月15日 大阪府 |
死没 | 1948年3月13日(62歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1905 - 1941 |
最終階級 | 陸軍中将 |
指揮 |
東部軍司令官 東京防衛司令官 第6師団長 騎兵第4旅団長 騎兵第16連隊長 |
戦闘 |
日中戦争 *武漢作戦 |
経歴
編集大阪府出身[1]。大阪陸軍地方幼年学校、中央幼年学校を経て、1905年(明治38年)11月、陸軍士官学校(第18期)を卒業[1][2][3]。翌年6月、騎兵少尉に任官し騎兵第4連隊付となる[1][3]。1912年(大正元年)11月、陸軍大学校(第24期)を卒業した[1][2][4]。
1913年(大正2年)12月、陸軍省軍務局付勤務となり、騎兵第4連隊中隊長、第15師団参謀、参謀本部員、中国政府応聘、陸軍騎兵学校教官、軍務局課員などを経て、1925年(大正14年)11月から一年間、陸大専攻学生として学んだ[1]。1926年(大正15年)12月、騎兵監部員となり、フランス出張、騎兵第16連隊長を経て、1929年(昭和4年)8月、騎兵大佐に昇進[1][4]。1930年(昭和5年)12月、騎兵監部員に就任し、騎兵学校教育部長、同校幹事を歴任し、1934年(昭和9年)3月、陸軍少将に進級[1][4]。
1935年(昭和10年)3月、騎兵第4旅団長となり満州に赴任し、騎兵学校長を経て、1937年(昭和12年)8月、陸軍中将となり騎兵集団長に就任[1][2][4]。同年12月、第6師団長に親補され武漢作戦などに参加[1][2][4]。1939年(昭和14年)12月、東京防衛司令官、1940年(昭和15年)8月、東部軍司令官[5]を歴任し、1941年(昭和16年)10月に待命[1][2][4]。同年12月、予備役に編入された[1][2][4]。1944年(昭和19年)3月から翌年8月まで賀陽宮家別当を務めた[1]。
栄典
編集- 勲章等
- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[7]
- 外国勲章佩用允許
脚注
編集- ^ a b c d e f g h i j k l m n 『日本陸海軍総合事典』第2版、22頁。
- ^ a b c d e f g h 『日本陸軍将官辞典』92頁。
- ^ a b 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』225-226頁。
- ^ a b c d e f g 『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』226頁。
- ^ 梅津美治郎、山田乙三が大将に進級『東京日日新聞』(昭和15年8月2日夕刊)『昭和ニュース事典第7巻 昭和14年-昭和16年』本編p781 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年
- ^ 総理庁官房監査課編『公職追放に関する覚書該当者名簿』日比谷政経会、1949年、「昭和二十二年十一月二十八日 仮指定者」36頁。
- ^ 『官報』第4438号・付録「辞令二」1941年10月23日。
- ^ 『官報』第4632号 付録「辞令二」1942年6月20日。