秋山虎康

甲斐武田氏旧臣 越前守

秋山 虎康(あきやま とらやす)は、戦国時代の武将。甲斐武田家家臣・秋山氏の一族で、武田二十四将の一人・秋山虎繁(信友)の甥とされる。娘の於都摩(おつま。下山殿)は、穴山信君の養女として徳川家康の側室となり[8]、家康の五男である武田信吉を生んだ[9]。子孫は江戸幕府の旗本となった。通称は源四郎[10][11]、越前守と称した[12]

 
秋山 虎康
時代 戦国時代 - 安土桃山時代
生誕 大永4年(1524年)? ※本文参照
死没 慶長7年6月17日[1]1602年8月4日
別名 源四郎、越前守
戒名 日楽[1][2]
自得院殿日楽大居士[注釈 1]
墓所 本土寺
主君 武田信玄勝頼徳川家康
氏族 秋山氏(武田氏・甲斐源氏)
父母 父:秋山信藤
兄弟 信時、正時、日喜尼[5]虎康
妙徳院[6]
昌秀於都摩、女(渡辺守の妻)[7]
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生涯

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甲斐国高畠(現在の山梨県甲府市高畑)を拠点とし[10][12]武田信玄[9][2]武田勝頼[2]に仕えた。『甲陽軍鑑』によれば、御聖道様衆(信玄の次男・竜芳(海野信親)付きの役人[11])の一人とされる[10][12]

天正10年(1582年)2月、織田信長武田征伐において穴山信君(梅雪)が徳川家康に降った際、信君は家康に2人の「美女」を献じているが、その一人が虎康の娘の於都摩であった[13][10][注釈 2]。於都摩は下山城主であった信君の娘(養女)とされたために、下山殿と呼ばれたという[10]。家康の側室となった於都摩は、天正11年(1583年)に万千代(武田信吉)を生み、天正19年(1591年)に死去した[13]

文禄3年(1594年)、孫の武田信吉の領地である下総国小金領に移住[注釈 1]慶長元年(1596年)9月、本源寺(現在の松戸市大橋)を開く[注釈 1]。「本源寺」の名は、本山である本土寺の「本」と、秋山氏の本姓である源氏の「源」に由来するという[注釈 1]

本土寺過去帳』や、『続群書類従』所収「秋山系図」[2]によれば、慶長7年(1602年)6月17日に84歳で没とある[2]。ただし、84歳で亡くなったとするならば大永4年(1524年)生まれとなり、伯父とされる[注釈 3]虎繁の生年(大永7年(1527年))より前の生まれとなる。

系譜

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特記事項のない限り、『寛政重修諸家譜』による[9]

  • 父:秋山光家(秋山信藤[2]
  • 母:不詳
  • 子女

虎繁との関係

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  • 続群書類従』所収「秋山系図」によれば、秋山信友(虎繁)の弟である信藤の三男であり、すなわち虎康は虎繁の甥にあたる[2]。この出自については、娘・於都摩の墓(千葉県松戸市本土寺)に建てられた墓碑(徳川光圀が建立し、光圀自ら碑文を撰したもの[14])にも採用されている。
  • 「秋山系図」では、兄の信友に嗣子がなかったために信藤が家を継いだという[2]

補足

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  • 父の名は『寛政重修諸家譜』では「光家」とされているが、『続群書類従』所収「秋山系図」では「信藤」とある[2]。「秋山系図」によれば信藤は信玄・勝頼・家康に仕え、天正13年(1585年)9月7日(異本に5月7日)死去、法名は法善[2]
  • 続群書類従』所収「秋山系図」によれば、兄に信時(平十郎、法名日相)と政時(法名日陽)、姉妹として「法名日善」の女子がある[2]。政時は天正16年(1588年)6月23日に甲斐で切腹、とある[2]

甲府市高畑の「秋山氏館跡」

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虎康が拠点を置いた高畠(甲府市高畑)には「秋山氏館跡」と呼ばれる遺跡がある[12]。1999年から2000年にかけて行われた発掘調査の結果[15]、中世には館としては使用されていなかったことが判明した[16]。この遺跡のある地点は、江戸時代後期に高畑村の村役人(名主や長百姓[17])を務めた秋山氏の屋敷跡であり、発掘調査では陶磁器・土器・漆器など村役人層の生活を知ることのできる資料がまとまって発掘された[16]。報告書では「近世の秋山氏屋敷跡」と言うべきであろうとされている[17]

近世高畑村の秋山家は、虎康とは別系統とされる[18]。高畑村秋山家の所伝によれば、祖先は武田家に仕え、武田家滅亡後は「西郡中野村」に蟄居していたが、慶長10年(1605年)に「兵部介」が当地に屋敷を構えたとされ[17]、柳沢家が甲府に在城していた時代(甲府藩)には家臣として召し抱えられたが、柳沢吉里が大和郡山藩に転出した際に甲斐に残留したという[17]

甲斐国志』によれば、秋山伯耆守(虎繁)の子・民部右衛門の孫にあたる秋山平太夫は水野監物(岡崎藩)に仕官した[10][注釈 4]。平太夫の二男・秋山孫右衛門は、高畑村に住む従兄弟の秋山三左衛門を頼り[10]、宝永2年(1705年)の諸浪人改の際に「浪人」として高畑村に所在していたという[10][18]

備考

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  • 高畑の南にあった長慶寺には、「秋山越前守」(「前越州太守円感存龍禅定門」、命日3月25日)、「秋山夫人」(「長慶院殿安昌喜永禅定尼」、命日6月18日)の位牌があり[19][10]、のちに洪水で被災して北山筋塚原村(現在の甲府市塚原町)に移転した[19][注釈 5]。位牌に記された「秋山越前守」を秋山虎康[12][10]、「秋山夫人」を於都摩[10]とする説明がある。

脚注

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注釈

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  1. ^ a b c d 本源寺境内石碑の説明[3][4][信頼性要検証]
  2. ^ もう一人は市川昌永の娘・良雲院[13][10]
  3. ^ 虎康の没年月日・享年を記す「秋山系図」は信友(虎繁)を信藤の兄としている。信友・信藤兄弟や、虎康の兄のうち1人(政時)の没年月日は記されているが、享年は記されていない。
  4. ^ この秋山家は、のちに山形藩に移される水野家家臣として続いた。家蔵文書「秋山家文書」が山形大学附属図書館に寄託されている。古文書史料目録 第30号(山形大学附属図書館)
  5. ^ 甲府市教育委員会の「秋山氏館跡」調査報告によれば寺院の所在は不明とあるが[18]、無住の寺院となっている同寺を訪問した報告を行うウェブサイトがある[20]

出典

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  1. ^ a b 千葉県企画部広報県民課 1982, p. 180
  2. ^ a b c d e f g h i j k l 「秋山系図」『続群書類従 5下』p.451
  3. ^ 了修山本源寺 松戸市大橋にある日蓮宗寺院”. 猫の足あと. 2021年12月7日閲覧。
  4. ^ 松戸市 / 松戸大橋樹木葬墓地”. 株式会社アイエム. 2021年12月7日閲覧。
  5. ^ 千葉県企画部広報県民課 1982, p. 55
  6. ^ 千葉県企画部広報県民課 1982, p. 65
  7. ^ 寛政重修諸家譜 第4』 1980, p. 83
  8. ^ 流山市立博物館友の会 2016, p. 53
  9. ^ a b c 『寛政重修諸家譜』巻第二百六、国民図書版『寛政重修諸家譜 第二輯』pp.30-31
  10. ^ a b c d e f g h i j k l 『甲斐国志』巻之百九、甲陽図書刊行会版『甲斐国志 下』p.1031
  11. ^ a b 磯貝 1976, pp. 320, 321
  12. ^ a b c d e 甲府市教育委員会 2001, p. 4.
  13. ^ a b c 『甲斐国志』巻之九十八、甲陽図書刊行会版『甲斐国志 下』p.811
  14. ^ 河上 2005, p. 115
  15. ^ 甲府市教育委員会 2001, p. 3.
  16. ^ a b 甲府市教育委員会 2001, p. 103.
  17. ^ a b c d 甲府市教育委員会 2001, p. 98.
  18. ^ a b c 甲府市教育委員会 2001, p. 5.
  19. ^ a b 『甲斐国志』巻之四十四、甲陽図書刊行会版『甲斐国志 上』p.781
  20. ^ 徳雲山長慶寺”. 甲斐武田を探検っ!!. 2021年12月13日閲覧。

参考文献

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  • 千葉県企画部広報県民課 編『千葉県史料 中世篇-[4] 本土寺過去帳』千葉県、1982年。 
  • 『寛政重修諸家譜 第4』続群書類従完成会、1980年。 
  • 河上順光『本土寺物語』本山本土寺、2005年。 
  • 磯貝正義『甲陽軍鑑 上』新人物往来社、1976年。 
  • 流山市立博物館友の会 編『東葛流山研究第34号 楽しい東葛寺社事典』崙書房、2016年。 
  • 甲府市教育委員会『秋山氏館跡』 16巻〈甲府市文化財調査報告〉、2001年3月30日。doi:10.24484/sitereports.7140NCID BA53806468https://sitereports.nabunken.go.jp/7140