秋利美記雄

日本の実業家

秋利 美記雄[1](あきとし みきお、1966年2月11日 - )は、日本実業家クイズプレイヤー。合同会社カラコロモ代表。山口県下関市出身。名古屋大学文学部卒業[2]

人物

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中学生の頃は、クイズの部活動が無かったことから、自分で勝手にクイズのサークルを作って仲間らと遊んでいたという[2]

アメリカ横断ウルトラクイズ

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1984年、『史上最大!第8回アメリカ横断ウルトラクイズ』(日本テレビ)で予選を突破するも、グアムの「突撃○×泥んこクイズ」で敗退[2]。その後同年12月に、第15回で機内ペーパークイズ1位となった大石禎らと共に名古屋大学クイズ研究会を創設。さらには社会人クイズサークル「どえりゃあもんくらぶ」を、同大学クイズ研究会の後輩であった仲野隆也(後の有限会社セブンワンダーズ代表)や五島滋子(第1回ウルトラクイズ準優勝)と共に設立。

1989年、『史上最大!第13回アメリカ横断ウルトラクイズ』で5年ぶりに予選を突破し、オーストラリア大陸上陸・アメリカ本土上陸を果たす。出場者の1人である長戸勇人をライバル視しており、第9チェックポイントのショットオーバーで行われた「地獄のお叫びクイズ」では秋利の絶叫フレーズが「長戸帰れー!!」(それを聞いた長戸が「秋利帰れ」と言ったため、長戸の絶叫フレーズが急遽「秋利帰れー!!」に変更された)、準決勝のボルティモアで行われた「通せんぼクイズ」は、長戸、永田喜彰田川憲治と対決。準決勝用に用意された問題140問が使い果たされるほどの激戦を繰り広げ、長戸の通過を8回阻止するが、田川と共に敗退(なお、罰ゲームとして行われた3位決定戦を制したので、3位秋利、4位田川となっている)。第4チェックポイントの団体戦では長戸と同じチームだった。

その後、ファミリー劇場の『今だから話せるアメリカ横断ウルトラクイズ丸秘証言集 PART II』で秋利、長戸、永田、田川の4人が出演し、特別ルール(番組当時の構成を担当していた萩原津年武が製作した10問の問題に早押しで解答。正解で1ポイント、不正解でマイナス1ポイント)で再現されたボルチモアの戦いで優勝し、リベンジを果たしている。だが、長戸と永田がお手つきを連発、秋利と田川は無解答だったため、最終的には長戸と永田がマイナス1ポイント、秋利と田川が0ポイントという結果だったので、易しい決勝問題を正解した秋利が勝利した。第14回にも出場したが、ドーム予選で敗退した。

その他主な戦績として『クイズタイムショック』トップ賞[2]。その後も『ギミア・ぶれいく 史上最強のクイズ王決定戦』(第5位)[2]、『FNS1億2,000万人のクイズ王決定戦!』や『カルトQ競馬)』に出場するなど、クイズプレイヤーとしての活動を続ける。1990年の時点では、学習塾の講師を務める傍ら、英語フランス語翻訳の仕事をしていた[2]

設立した名古屋大学クイズ研究会は、秋利と長戸との対決が縁となり、同研究会最大のライバルである立命館大学クイズソサエティーとの交流戦である「名立戦」(めいりつせん)[3]を、国立と私立との垣根を越え、毎年11月頃に定期的に実施するようになった[4]

実業家として

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1993年、シンガポールに移住し、1995年にはベトナムホーチミンに移住。

1997年にアパレル会社の通訳を経て、2003年5月にホーチミンにてアパレル商社Maido Co., Ltd.を設立。

2009年、日本の貿易会社カラコロモを設立し、アパレルのコンサルティングやポータルサイト「アパレルリソースインインドシナ」を立ち上げるなど、東南アジアを中心にビジネスを展開している。

脚注

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  1. ^ 公式サイトでは「美記雄」になっているが、クイズ番組出演時には「美紀雄」となっている。
  2. ^ a b c d e f FLASH EXCITING 1990年11月12日増刊号 p.112「テレビで活躍するクイズ王たちの素顔」
  3. ^ 立命館大学側では「立名戦」(りつめいせん)とも称する場合もあるが、正式名称は立命館大学側も名古屋大学側も「名立戦」である。
  4. ^ 名古屋大学クイズ研究会公式ホームページ「名古屋大学クイズ研究会の紹介」また、名古屋大学クイズ研究会公式Twitterおよび立命館大学クイズソサエティー公式Twitterのいずれもの過去のツイートで名立戦の実施が確認できる。

外部リンク

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