秋元喬求
秋元 喬求(あきもと たかもと)は、武蔵川越藩の第3代藩主。
時代 | 江戸時代中期 |
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生誕 | 享保元年(1716年) |
死没 | 延享元年2月26日(1744年4月8日) |
改名 | 彦七(幼名)→喬求 |
戒名 | 誠心院殿義由知貫大居士 |
墓所 | 群馬県前橋市総社町総社の光巌寺 |
官位 | 従五位下、越中守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 武蔵川越藩主 |
氏族 | 戸田氏→秋元氏 |
父母 | 父:戸田忠余、養父:秋元喬房 |
兄弟 | 喬求、戸田忠盈、戸田忠寛、木下俊胤 |
妻 | 秋元喬房の娘 |
子 |
逵朝 養子:凉朝 |
生涯
編集享保元年(1716年)、下野宇都宮藩主戸田忠余の長男として生まれる。享保12年(1727年)閏1月16日に従伯父の川越藩主秋元喬房の婿養子として迎えられ、享保15年(1730年)12月18日に従五位下・越中守に叙位・任官する。元文3年(1738年)、喬房の死去により家督を継いだ。
系譜
編集父母
正室
- 秋元喬房の娘
子女
- 秋元逵朝(次男)
養子