磯辺サタ
日本のバレーボール選手
磯辺 サタ(いそべ さた、結婚後の姓は丸山[1]、1943年12月19日 - 2016年12月18日)は、日本の元女子バレーボール選手。1964年東京オリンピック金メダリスト。東洋の魔女[2]のメンバー。
| ||||||||||||||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
![]() ソビエトチームにスパイクを放つ磯辺サタ(Sata Isobe spiking ball against Soviet Union National Team, 1964 Tokyo Olympics Women's Volleyball) | ||||||||||||||||||
基本情報 | ||||||||||||||||||
国籍 |
![]() | |||||||||||||||||
生年月日 | 1943年12月19日 | |||||||||||||||||
出身地 | 千葉県香取郡神崎町 | |||||||||||||||||
没年月日 | 2016年12月18日(72歳没) | |||||||||||||||||
ラテン文字 | Sata Isobe | |||||||||||||||||
身長 | 173cm | |||||||||||||||||
体重 | 59kg | |||||||||||||||||
選手情報 | ||||||||||||||||||
ポジション | レフト | |||||||||||||||||
ブロック | ||||||||||||||||||
|
来歴
編集幼少の頃に両親を亡くし、千葉県香取郡神崎町にある叔母の家で育つ。神崎町立神崎中学校時代に学級担任に勧められてバレーボールを始める[3]。卒業後、一時日紡貝塚(のちのユニチカ・フェニックス)に籍を置いたが、翌年四天王寺高校に入学した。高校卒業後、再び日紡貝塚に入社。
1964年東京オリンピックでは日本代表チームの最年少メンバーとして出場し、「東洋の魔女」の主力メンバーとして、決勝戦で宿敵であるソ連に勝利し、金メダルを獲得した[4]。守備から攻撃にすぐ移れるように、回転レシーブを考案し実践した。1965年に引退。
球歴
編集所属チーム
編集脚注
編集- ^ 東洋の魔女 磯辺サタさん(72歳)逝去
- ^ Remembering the Oriental Witches: Sports, Gender and Shōwa Nostalgia in the NHK Narratives of the Tokyo Olympics / Oxford University Press
- ^ VOLLEYBALL(日本バレーボール協会機関誌)1962年4月号 48ページ
- ^ “「東洋の魔女」磯辺サタ、鬼の大松が取り持った縁 - スポーツ : 日刊スポーツ”. nikkansports.com. 2024年12月9日閲覧。
- ^ “20年夏季五輪:東京決定 「東洋の魔女」丸山さん あの青春をもう一度「6人で楽しんで観戦したい」”. 毎日jp (毎日新聞社). (2013年9月10日) 2013年11月17日閲覧。
- ^ 【大阪の20世紀】(31)回転レシーブ“東洋の魔女” 世界に興奮と感動(6-6ページ) - MSN産経west 2011.10.20
- ^ “【訃報】東京オリンピック 金メダリスト 磯辺サタさん(72歳)逝去”. 日本バレーボール協会 (2016年12月19日). 2017年7月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年12月18日閲覧。
外部リンク
編集- 磯辺サタ - 国際オリンピック委員会
- 磯辺サタ - オリンピックチャンネル
- 磯辺サタ - Olympedia
- 磯辺サタ - Sports-Reference.com (Olympics) のアーカイブ