石川柳城
石川 柳城[1](いしかわ りゅうじょう、弘化4年10月26日(1847年12月3日)[2] - 昭和2年(1927年)11月17日)は、明治-大正時代の南画家。尾張国海部郡佐屋村(現:愛知県愛西市佐屋町)出身。 名は戈足。字は子淵、通称金三郎のち孝蔵。雅号は柳城。本姓は伊東。吉田稼雪の門。京都に出て日根野対山・中西耕石らと交わり、また台湾や中国に歴遊して研鑽をつみ、南画の泰斗としてその名を知られた[3]。
石川 柳城 いしかわ りゅうじょう | |
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個人情報 | |
生誕 | 1847年12月3日 尾張国海部郡佐屋村(現:愛知県愛西市佐屋町) |
死没 | 1927年11月17日(79歳没) |
国籍 | 日本 |
職業 | 南画家 |
生涯
編集出生
編集弘化4年10月26日(1847年12月3日)、尾張国海部郡佐屋村(現:愛知県愛西市佐屋町)の旧尾張藩史、伊藤耕斎の第三子(伊藤金三郎)として生まれる。文久元年(1861年)、14歳で吉川家の養子となり「考蔵」と改名。明治8年(1875年)吉川家を去り石川古道の家を継ぎ、今の石川姓を名乗ることとなる[4]。