石井虎雄
石井 虎雄(いしい とらお、1883年12月5日 - 1945年1月14日[1])は、日本の陸軍軍人。最終階級は陸軍少将。
石井 虎雄 | |
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生誕 |
1883年12月5日 日本 佐賀県 |
死没 | 1945年1月14日(61歳没) |
所属組織 | 大日本帝国陸軍 |
軍歴 | 1905 - 19?? |
最終階級 | 陸軍少将 |
来歴
編集佐賀県に生まれ、陸軍士官学校17期を卒業。東條英機元首相とは同期。その後、陸軍大学校30期に学び、石原莞爾と机を並べる。昭和7年(1932年)6月30日、歩兵中佐時に沖縄連隊区司令官に発令され[2]、同年8月8日歩兵大佐に昇進[3]。昭和9年(1934年)頃、『沖縄防衛対策』と題する論文をまとめ、陸軍省上層部及び参謀本部への意見具申を行なう。その要旨としては以下の通り。
- 南西諸島は軍事上極めて重要で、一島でも敵手に入れば国防上重大な不利になる。
- 陸海軍の現況は南西諸島に配兵することは困難である。
従って、海面以外の防衛は住民自ら担当する必要があり、軍が派遣される場合でも住民の協力が必要である。このため、平時から在郷軍人を主体とする義勇隊を編成し、兵器 を整備する必要がある、と主張。さらには、沖縄県の風土や県民性から全体的に郷土防衛意識が低く、国防上大いに憂慮する旨を説いている。この約11年後、沖縄は米軍との激戦場となり、虎雄の危倶していたことは現実となる。
虎雄は昭和10年(1935年)8月1日、第1師団司令部附の身分で、配属将校として早稲田大学勤務を命ぜられる[3]。同11年(1936年)12月1日陸軍少将を拝命と同時に待命となり、同月28日予備役に編入された[3]。
晩年は、同18年(1943年)博文館が刊行したプロパガンダ『聖戦画帖 戦う東條首相』(小田俊與著)の監修者になっている。
栄典
編集- 1940年(昭和15年)8月15日 - 紀元二千六百年祝典記念章[4]
脚注
編集参考文献
編集- 外山操編『陸海軍将官人事総覧 陸軍篇』芙蓉書房出版、1981年。
- 福川秀樹『日本陸軍将官辞典』芙蓉書房出版、2001年。