石井 茂清(いしい しげきよ)は、安土桃山時代から江戸時代初期にかけての武将肥前国戦国大名龍造寺氏の重臣。佐賀藩鍋島氏の家老。

 
石井 茂清
時代 安土桃山時代江戸時代初期
生誕 不明
死没 元和7年11月21日1622年1月2日
別名 清五左衛門尉
戒名 心性院殿日純 
官位 縫殿助(受領名)
幕府 江戸幕府
主君 龍造寺政家鍋島直茂勝茂
氏族 肥前石井氏藤原氏
父母 父:石井茂利
母:鍋島信房の養女
兄弟 家利茂清
田尻春種の娘
正之(養子)、孝成
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初代藩主鍋島勝茂から偏諱を授けられ、茂清と名乗る。通称は清五左衛門尉、縫殿助。

来歴

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龍造寺氏鍋島氏の重臣石井壱岐守茂利の次男として誕生。兄の源右衛門尉家利天正12年(1584年)の沖田畷の戦いで戦死したため、継嗣となる。

佐賀藩鍋島直茂に仕え、父茂利と共に家老を務めた。

文禄・慶長の役では、鍋島直茂・勝茂父子に従って朝鮮半島に渡り、約1,000人の将兵を率いて李惟一隊と交戦し、功をあげた。

帰国後、直茂・勝茂父子を支えて代官などを務め、佐賀藩成立期における藩政の確立に貢献した。

元和元年(1614年)、大坂夏の陣に出陣し、勝茂の使者として徳川家康と面会した。

元和7年(1621年)、一門の石井与左衛門に奸計があることが発覚する。勝茂は寄親の茂清に対し、与左衛門を上意討ちにするよう命じた。

茂清は家来伊東彦右衛門を伴い、与左衛門の屋敷を訪れたが、与左衛門が抵抗して激しく刀を交える。暗闇の中、彦右衛門が誤って茂清を斬りつけてしまい、茂清は与左衛門を討ち果たすも、その傷がもとで死去した。

勝茂は茂清の死を惜しみ、直ちに茂清の養子塩童(弥七左衛門正之)、実子倉法師(兵庫助孝成)を召し出して家督相続を下命した。家督は実子の孝成が継ぎ、正之は別家を立てた。

孝成以降、子孫は知行1,250石(物成500石)を相伝し着座の家格をもって遇され、石井寄合衆の大組頭も世襲している。

参考資料

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