石井 忠信/石井 一幽軒(いしい ただのぶ/いしい いちゆうけん)は、戦国時代から安土桃山時代にかけての武将肥前国戦国大名龍造寺氏の重臣。肥前国佐嘉郡飯盛城石井和泉守忠清の三男。

 
石井 忠信
時代 戦国時代
生誕 不明
死没 天正15年2月14日1587年3月22日
改名 忠久
別名 一幽軒
戒名 日善
墓所 佐賀県佐賀市 常照院
官位 伊予守(受領名)
主君 龍造寺隆信政家鍋島直茂
氏族 肥前石井氏藤原氏
父母 父:石井忠清、母:飯盛肥前守の娘
兄弟 常延、忠家、忠信
大家次郎左衛門の娘
忠時、忠教、四郎兵衛、石井忠朝室、富吉主水室
特記
事項
系譜によっては、諱を「忠倍」とするものもある。
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龍造寺隆信政家および鍋島直茂の重臣を務めた。

佐賀藩祖鍋島直茂の正室で、初代藩主勝茂の生母になった陽泰院の叔父にあたる。

佐賀藩独礼石井伊予守家(家禄375石)の初代である。

来歴

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肥前国小城郡千葉氏および佐賀城龍造寺氏の重臣で、佐嘉郡飯盛城石井和泉守忠清の三男として生まれる。

父忠清や兄兵部少輔常延・長門守忠家とともに、龍造寺家兼隆信二代に仕えた。

元亀元年(1570年)、鍋島直茂に従い、佐賀城に侵攻した大友親貞の本陣を急襲し、龍造寺氏の戦勝に貢献した(今山の戦い)。

天正12年(1584年)3月、沖田畷の戦いで、龍造寺隆信が討たれ、石井氏からも多くの戦死者を出した。忠信は、石井氏の長老として、一族の団結を促した。

天正8年(1580年)の段階で、龍造寺氏の分限帳には、嫡男の肥後守忠時が掲載されており、忠時に家督を譲って隠居していたものと考えられる。忠時は、本家刑部少輔常忠の跡を受けて、飯盛城主になった。

子孫は、後に佐賀藩独礼の家格で遇せられ、家禄375石をもって、明治維新の廃藩まで続いた。

天正15年(1587年)死去。