矢風 (標的艦)
矢風(やかぜ)は、日本海軍の標的艦。竣工時は峯風型駆逐艦の6番艦。戦後解体。艦名は矢が飛んでいるときに生じる風のこと[7]。
矢風 | |
---|---|
駆逐艦「矢風」 | |
基本情報 | |
建造所 | 三菱造船長崎造船所[1] |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
艦種 |
一等駆逐艦 1942年7月20日 標的艦[1] |
級名 | 峯風型(駆逐艦時) |
建造費 | 予算 2,028,415円[2] |
母港 |
竣工時 横須賀 1937年以降 呉 |
艦歴 | |
計画 | 大正6年度[1](八四艦隊案[2]) |
起工 | 1918年8月15日[3] |
進水 | 1920年4月10日[3] |
竣工 | 1920年7月19日(駆逐艦として)[3] |
除籍 | 1945年9月15日[1] |
その後 | 戦後着底、解体[1] |
要目(標的艦として1945年時[4]) | |
排水量 | 1,531トン |
基準排水量 | 1,321英トン[1] |
全長 | 102.565m |
水線長 | 99.536m |
垂線間長 | 97.536m |
最大幅 | 8.915m |
深さ | 5.791m |
吃水 | 3.130m |
ボイラー |
ロ号艦本式缶2基[1] 他に1基 不使用 |
主機 | 三菱パーソンズ式タービン2基[1] |
推進 | 2軸 |
出力 | 11,261hp |
速力 | 24ノット |
航続距離 | 2,230カイリ / 14ノット |
乗員 |
1942年7月20日定員 117名[5] 1945年7月1日 155名[6] |
兵装 |
5cm山内単装砲1門、25mm機銃単装4挺 または25mm単装機銃2挺、13mm連装機銃1基(1945年7月)[注釈 1] 爆雷8個 |
装甲 | DS鋼(1kg演習弾に耐える程度の防御[1]) |
駆逐艦時の要目は峯風型駆逐艦を参照 |
艦歴
編集駆逐艦として
編集峯風型駆逐艦として1920年(大正9年)7月19日三菱長崎造船所で竣工。横須賀鎮守府籍。1931年(昭和6年)に所属の第2駆逐隊は第一航空戦隊(鳳翔、加賀)に編入され、翌年の第一次上海事変に参加する。1937年(昭和12年)以降は駆逐艦籍のまま兵装の一部を撤去し「摂津」の無線操縦艦として用いられた。
1940年(昭和15年)10月11日、横浜港沖で行われた紀元二千六百年特別観艦式に摂津とともに参加[8]。矢風は第一列の末尾に、摂津は第二列に配置された。
標的艦として
編集太平洋戦争が始まり標的艦が「摂津」1艦では足らなくなった。また元戦艦の「摂津」は18ノットと低速で運動能力も低かったため「矢風」も爆撃標的艦に改装することとなった。改装内容は兵装を全廃して、上部構造物を金網で覆う等の対爆弾防御を施した。速力は24ノット発揮できたが、元が駆逐艦のため1kg演習弾に耐える程度の簡単な防御しか施せなかった。このときの改造では無線操縦装置はそのまま残されたが、これは1944年10月に撤去された[9]。
1942年(昭和17年)3月から5月にかけて[9]改造し、7月20日に特務艦に編入され標的艦に類別される[10][11]。 「矢風」は8月31日から9月27日までルオットで第四空襲部隊の雷撃訓練に協力した[12]。次はタロアで一空の爆撃訓練に協力することになっていたが、機動部隊よりその爆撃訓練への協力要請があったようで、10月2日にトラックに着き、機動部隊の爆撃訓練に協力した[13]。それが終わると「矢風」は10月9日にトラックを離れて10月13日にタロアに着き、翌日から10月23日まで一空の爆撃訓練に協力した[14]。
1943年(昭和18年)3月6日、船団護衛中[15]カビエン南方[16]で第34号哨戒艇と衝突して艦首を失ったため[9]、4月12日から5月22日にかけて[17]呉海軍工廠で修理を行った際に簡易型艦首とした。一方、第34号哨戒艇はこの事故で船体が分断され、前部が沈没、後部が大破し、曳船の曳航でトラックに入港した。修理中の6月1日、古賀峯一連合艦隊長官より第一基地航空部隊(第十一航空艦隊)編入と7月のマーシャル方面部隊訓練、8月ラバウル方面部隊訓練に従事するよう下令される[18]。
6月艦長となった櫻庭は、「矢風」には砲が搭載されていなかったことから潜水艦対策として木造の偽砲を作らせ、全甲板と後甲板に配置した[19]。
「矢風」は6月10日に呉を出発し、途中まで「摩耶丸」「あきつ丸」「凌水丸」を護衛したのち、6月18日にルオットに到着[18]。以後、サイパンやギルバート方面で訓練に従事した[17]。
8月13日、サイパンを出港し輸送船「五洲丸」を護衛してサイパン入港[20]。8月31日、サイパン出港[20]。途中で輸送船「富士山丸」、「東亜丸」、給油艦「鶴見」、駆逐艦「玉波」と合流し9月2日にトラック到着[21]。同地で機動部隊の訓練標的を務めた[22]。9月12日、訓練中に「翔鶴」の戦闘機1機が「矢風」の前檣に衝突し搭乗員が死亡するという事故が発生した[22]。9月20日、機動部隊に編入[23]。10月18日、輸送船「東亜丸」を護衛してエニウェトクへ向け出港[24]。10月21日、エニウェトク到着[24]。10月30日、トラックに戻った[25]。同日、機動部隊から除かれ連合艦隊附属となり、油槽船「寶洋丸」と「玄洋丸」のトラックからシンガポールまでの護衛が命じられた[26]。11月5日、トラック出港[25]。
1月6日、船団はアメリカ潜水艦「ハダック」の襲撃を受けた[27]。砲撃を受けていたさなかに「矢風」は12ノットで「玄洋丸」の右舷後部に衝突し、艦首が折れ曲がった[28]。続いて「宝洋丸」が被雷し、「矢風」でも雷跡を認めたが、それは「矢風」の艦底を通過した[29]。「矢風」は爆雷攻撃を行うとともに「宝洋丸」乗員を収容[30]。その後、現場に到着した軽巡洋艦「長良」に「宝洋丸」乗員を移し、輸送船「金城丸」に伴われてトラックへと向かった[31]。11月7日トラック到着[32]。同地で修理を行った[17]。
1944年2月7日、トラック発の船団を護衛して内地へ向かい、2月27日に呉に入港した[17]。その後は北海道方面など内地で爆撃訓練に従事した[17]。
1945年(昭和20年)7月18日 横須賀港小海に係留中に敵艦載機の攻撃を受ける(横須賀空襲)。隣の艦が直撃弾を受けた際に爆風や破片により損傷し、すぐに修理されたがそのまま終戦を迎えた。9月15日除籍。
歴代艦長
編集※脚注無き限り『艦長たちの軍艦史』224-225頁による。
艤装員長
編集駆逐艦長/特務艦長
編集- (心得)山田松次郎 少佐:1920年6月19日[34] - 1920年12月1日[35]
- (心得)植松練磨 少佐:1920年12月1日 - 1921年12月1日
- 植松練磨 中佐:1921年12月1日 - 1922年12月1日
- (心得)石川哲四郎 少佐:1922年12月1日 - 1923年12月1日
- 石川哲四郎 中佐:1923年12月1日 - 1924年2月5日
- (心得)保村禎一 少佐:1924年2月5日[36] - 1924年12月1日
- 若木元次 少佐:1924年12月1日 - 1925年12月1日
- 鈴木清 中佐:1925年12月1日 - 1926年10月15日
- 難波正 少佐:1926年10月15日 - 1927年12月1日
- 古瀬倉蔵 少佐:1927年12月 1日 - 1929年11月30日[37] *1929年4月10日より予備艦。
- 田原吉興 少佐:1929年11月30日[38] - 1931年10月31日[39]
- 牟田口格郎 少佐:1931年10月31日 - 1934年11月1日
- 吉田義行 少佐:1934年11月1日 - 1935年12月11日[40] *1935年7月18日より予備艦
- 白石長義 少佐:1935年12月11日[40] - 1936年6月15日[41]
- 亀山峯五郎 中佐:1936年6月15日 - 1937年3月1日[42]
- 高尾儀六 中佐:1937年3月1日 - 1937年11月15日[43]
- (兼)海東啓六 少佐/中佐:1937年11月15日[43] - 1937年12月1日[44] (本職:攝津副長)
- 久保田智 中佐:1937年12月1日 - 1938年4月15日[45]
- 白石長義 少佐/中佐:1938年4月15日 - 1938年11月25日[46]
- 藤田勇 少佐:1938年11月25日 - 1939年11月15日[47]
- (兼)大河原肇 少佐:1939年11月15日[47] - 1939年12月1日[48] (本職:敷波駆逐艦長)
- 岩上次一 少佐:1939年12月1日 - 1940年1月25日[49]
- 菅原六郎 少佐:1940年1月25日 - 1940年11月15日[50]
- 高塚實 少佐:1940年11月15日 - 1941年7月25日[51]
- 橋本正雄 少佐:1941年7月25日 -
- 土橋豪實 中佐:1942年6月27日 -
- 青野重郎 大尉/少佐:1942年7月10日 - 特務艦長 1942年7月20日[52] - 1943年6月7日[53]
- 櫻庭久右衛門 少佐:1943年6月7日 -
- 自見仁一 少佐:1943年12月15日 - 1944年7月15日[54]
- 石森重郎 大尉/少佐:就任年月日不明[注釈 2] - 1945年6月15日[55]
- 丹羽正行 大尉:1945年6月15日 -
脚注
編集注釈
編集- ^ #194405特務艦矢風戦時日誌戦闘詳報画像15の1945年5月の戦時日誌によると、1945年5月9日から16日(終了予定)の工事で25mm単装機銃2挺を搭載。同画像30の1945年7月18日の戦闘詳報には「本艦装備兵装25粍単装二基、13粍連装一基ニシテ(後略)」とある。
- ^ 石森重郎大尉/少佐の就任発令は見つかっていない。なお、『特務艦矢風戦時日誌(アジア歴史資料センター レファレンスコード C08030636400)』の石森特務艦長の記事中に「任少佐 五月一日海軍省」の記述があり、退任時の階級も海軍少佐であるため、大尉で特務艦長に補され在任中に少佐に昇進したことは判明している。
出典
編集- ^ a b c d e f g h i #日本海軍特務艦船史p.43
- ^ a b #戦史叢書31海軍軍戦備1pp.248-255
- ^ a b c #昭和15年6月25日現在 内令提要 10版 追録第7号原稿画像5、昭和15年6月25日現在の艦船要目公表範囲、矢風の項。
- ^ #終戦時の日本海軍艦艇p.105
- ^ 「昭和17年7月20日付 内令第1320号別表」 アジア歴史資料センター Ref.C12070164200
- ^ #194405特務艦矢風戦時日誌戦闘詳報画像13-14、准士官以上17名の氏名、下士官兵計138名の記載がある。
- ^ 『聯合艦隊軍艦銘銘伝』p330。
- ^ 『紀元二千六百年祝典記録・第六冊』、369頁
- ^ a b c d 丸スペシャル 『特務艦』、p. 58。
- ^ 「昭和17年7月20日付 内令第1317号」 アジア歴史資料センター Ref.C12070164200
- ^ #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)75頁『「矢風」に対する第四空襲部隊の訓練協力の下令』
- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』75ページ
- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』171-172ページ
- ^ 『中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降』179ページ
- ^ 世界の艦船 『日本軍艦史』p. 383。
- ^ 丸スペシャル『駆潜艇・哨戒艇』、pp.51-56。
- ^ a b c d e 丸スペシャル 『特務艦』、p. 50。
- ^ a b #戦史叢書中部太平洋方面海軍作戦(2)337頁『「矢風」の第二空襲部隊への編入』
- ^ 標的艦「矢風」巨弾地獄に針路をとれ、14ページ
- ^ a b 標的艦「矢風」巨弾地獄に針路をとれ、18ページ
- ^ 標的艦「矢風」巨弾地獄に針路をとれ、18-19ページ
- ^ a b 標的艦「矢風」巨弾地獄に針路をとれ、19ページ
- ^ 戦史叢書第62巻 中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降、403ページ
- ^ a b 標的艦「矢風」巨弾地獄に針路をとれ、21ページ
- ^ a b 標的艦「矢風」巨弾地獄に針路をとれ、22ページ
- ^ 戦史叢書第62巻 中部太平洋方面海軍作戦<2>昭和十七年六月以降、427ページ
- ^ The Official Chronology of the U.S. Navy in World War II
- ^ 標的艦「矢風」巨弾地獄に針路をとれ、23ページ
- ^ 標的艦「矢風」巨弾地獄に針路をとれ、24ページ
- ^ 標的艦「矢風」巨弾地獄に針路をとれ、24-26ページ
- ^ 標的艦「矢風」巨弾地獄に針路をとれ、26-27ページ
- ^ 標的艦「矢風」巨弾地獄に針路をとれ、28ページ
- ^ 『官報』第2271号、大正9年3月2日。
- ^ a b c 『官報』第2365号、大正9年6月21日。
- ^ 『官報』第2501号、大正9年12月2日。
- ^ 『官報』第3434号、大正13年2月6日。
- ^ 『官報』第878号、昭和4年12月2日。
- ^ 海軍歴史保存会編『日本海軍史』第10巻、発売:第一法規出版、1995年、186頁。
- ^ 『官報』第1454号、昭和6年11月2日。
- ^ a b 『官報』第2684号、昭和10年12月12日。
- ^ 『官報』第2835号、昭和11年6月16日。
- ^ 『官報』第3046号、昭和12年3月2日。
- ^ a b 「昭和12年11月15日付 海軍辞令公報 号外 第91号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072500
- ^ 「昭和12年1月1日付 海軍辞令公報 号外 第99号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072072700
- ^ 「昭和13年4月15日付 海軍辞令公報 号外 (部内限) 第168号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072073700
- ^ 「昭和13年11月25日付 海軍辞令公報 号外 (部内限) 第265号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072074600
- ^ a b 「昭和14年11月15日付 海軍辞令公報 (部内限) 第402号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072076700
- ^ 「昭和14年12月1日付 海軍辞令公報 (部内限) 第408号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077100
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第433号 昭和15年1月25日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072077600
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第555号 昭和15年11月15日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072079500
- ^ 「海軍辞令公報(部内限)第678号 昭和16年7月25日」 アジア歴史資料センター Ref.C13072081600
- ^ 「昭和17年7月20日付 海軍大臣官房 官房機密第9011号」 アジア歴史資料センター Ref.C12070421900
- ^ 「昭和18年6月7日付 海軍辞令公報 (部内限) 第1140号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072091500
- ^ 「昭和19年7月23日付 海軍辞令公報 甲 (部内限) 第1543号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072100100
- ^ 「昭和20年6月30日付 秘海軍辞令公報 甲 第1842号」 アジア歴史資料センター Ref.C13072105500
参考文献
編集- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝 全八六〇余隻の栄光と悲劇』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9。
- 世界の艦船 No. 500 増刊第44集 『日本軍艦史』海人社、1995年。 ISBN 4-905551-53-6
- 世界の艦船 No. 507 増刊第45集 『日本海軍護衛艦艇史』海人社、1996年。 ISBN 4-905551-55-2
- 『世界の艦船増刊第47集 日本海軍特務艦船史』、海人社、1997年3月。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
- (社)日本造船学会/編 編『昭和造船史(第1巻)』 明治百年史叢書 第207巻(第3版)、原書房、1981年(原著1977年10月)。ISBN 4-562-00302-2。
- COMPILED BY SHIZUO FUKUI (1947-04-25). JAPANESE NAVAL VESSELS AT THE END OF WAR. ADMINISTRATIVE DIVISION, SECOND DEMOBILIZATION BUREAU(福井静夫/収集・編集『終戦時の日本海軍艦艇』第二復員局、1947年04月25日)
- 防衛庁防衛研修所戦史室『海軍軍戦備<1> 昭和十六年十一月まで』 戦史叢書第31巻、朝雲新聞社、1969年。
- 防衛庁防衛研修所戦史室『戦史叢書62 中部太平洋方面海軍作戦<2> 昭和十七年六月以降』朝雲新聞社、1973年2月。
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第10巻 駆逐艦I』光人社、1990年。 ISBN 4-7698-0460-1
- 雑誌「丸」編集部『写真 日本の軍艦 第13巻 小艦艇I』光人社、1990年。 ISBN 4-7698-0463-6
- 丸スペシャル 日本海軍艦艇シリーズ No. 34 『特務艦』潮書房、1979年。
- 丸スペシャル 日本海軍艦艇シリーズ No. 49 『駆潜艇・哨戒艇』潮書房、1981年。
- 桜庭久右衛門「標的艦「矢風」巨弾地獄に針路をとれ」『変わりダネ軍艦奮闘記 裏方に徹し任務に命懸けた異形軍艦たちの航跡』潮書房光人社、2017年、ISBN 978-4-7698-1647-8、12-28ページ
- アジア歴史資料センター(公式)
- Ref.C08030636400『昭和20年5月1日~昭和20年7月18日 特務艦矢風戦時日誌戦闘詳報』。
- Ref.C13071989600『昭和15年6月25日現在 内令提要 10版 追録第7号原稿/巻1 追録/第6類 機密保護』。