真野春美
真野 春美(まの はるみ、1907年1月12日 - 没年不明)は、京都府出身のプロ野球選手(内野手)、パシフィック・リーグ審判員。
基本情報 | |
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国籍 | 日本 |
出身地 | 京都府 |
生年月日 | 1907年1月12日 |
没年月日 | 没年不明 |
身長 体重 |
167 cm 68 kg |
選手情報 | |
投球・打席 | 右投左打 |
ポジション | 二塁手、遊撃手 |
プロ入り | 1948年 |
初出場 | 1948年8月8日 |
最終出場 | 1948年8月8日 |
経歴(括弧内はプロチーム在籍年度) | |
選手歴 | |
監督歴 | |
この表について
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来歴・人物
編集東山中学(現・東山中学校・高等学校)在籍中に、1925年夏の甲子園に出場(2回戦で優勝した高松商に0-14と大敗)。東山中学卒業後は、明治大学に入学。田部武雄(後に東京倶楽部、藤倉電線でもチームメイトになる)を外野に追いやって、遊撃手のレギュラーとして活躍した。
明大卒業後は、社会人野球草創期の強豪・東京倶楽部に入団。1932年の第7回全日本都市対抗野球大会では二塁手としてチームを3度目の栄冠に導き、この大会から初めて設置された最優秀選手賞(後の橋戸賞)を受賞した。東京倶楽部が1938年に解散すると、藤倉電線の社員だった真野は藤倉電線硬式野球部に移籍。同年の第12回都市対抗野球大会ではチームを初出場にして初優勝に貢献した。東京倶楽部、藤倉電線と辿ったチームメイトには田部の他に菊谷正一(立大出身。立大時代首位打者獲得)、中島治康(のち巨人)がいる。その後も全京都に所属し、社会人野球の世界で活躍した。打撃・守備もさることながら、走塁面が素晴らしく、ベースランニングに定評があったと伝わる。
1947年に国民野球連盟の大塚アスレチックスに入団。既に40歳の高齢になっていたが、内野手としてプレーした。同年末、金星スターズが大塚アスレチックスオーナーの大塚幸之助に球団を売却すると、門前眞佐人、板倉正男、木場巌、小林経旺らと共に翌1948年、金星に入団。41歳にして初めてプロ野球の世界に入った。しかし、助監督としてのポストを用意されていたのであり、選手としての出場は8月8日の大陽戦(函館市民球場)で代走として出た1試合に留まった。同年にはファームの金星リトルスターズの監督も兼任した。
翌1949年より再び社会人野球の世界に戻り、日鉄二瀬の監督に就任。監督時代の教え子に三船正俊投手、横井啓二捕手がおり、松木謙治郎とは明大時代の先輩・後輩だったという縁で、両選手を阪神に入団させることに漕ぎ着けた[1](横井捕手は石川県出身者として、初のプロ野球選手及びタイガース選手となった)。その後、パシフィック・リーグ審判員に転身した。
没年は不明であるが、長寿であり、2003年頃まで存命だったと伝わっている。
詳細情報
編集年度別打撃成績
編集年 度 |
球 団 |
試 合 |
打 席 |
打 数 |
得 点 |
安 打 |
二 塁 打 |
三 塁 打 |
本 塁 打 |
塁 打 |
打 点 |
盗 塁 |
盗 塁 死 |
犠 打 |
犠 飛 |
四 球 |
敬 遠 |
死 球 |
三 振 |
併 殺 打 |
打 率 |
出 塁 率 |
長 打 率 |
O P S |
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1948 | 金星 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | -- | 0 | 0 | -- | ---- | ---- | ---- | ---- |
通算:1年 | 1 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | 0 | -- | 0 | -- | 0 | 0 | -- | ---- | ---- | ---- | ---- |
背番号
編集- 26 (1948年)
脚注
編集関連項目
編集外部リンク
編集- 個人年度別成績 真野春美 - NPB.jp 日本野球機構