直原 玉青(じきはら ぎょくせい、1904年8月1日 - 2005年9月30日)は、日本画家禅僧俳人

岡山県赤磐郡(現:赤磐市)生まれ、兵庫県淡路島で育つ。本名は正。大阪美術学校[1]卒業。帝国美術展に初入選後、日展に16回入選する。南画の第一人者。社団法人日本南画院会長理事長現代南画協会理事長、財団法人青少年文化研修道場理事、守口市美術協会会長、青玲社主宰、黄檗宗国清寺住職、俳誌「早春」選者[2]などを務める。洲本市名誉市民守口市名誉市民、南あわじ市名誉市民。

52歳の時、「自然の実相が禅」との柴山全慶老師(当時)の言葉に触れ、禅に傾倒。以来、老師の提唱は欠かさず聞いた。また当時の村瀬玄妙黄檗宗元管長とも幼馴染みで、臨済宗黄檗宗の僧籍をもつ。 また幼少時代を過ごした淡路島で唯一の黄檗宗の寺、国清庵が荒廃している姿をみて復興を決意、1970年(昭和55年)国清寺として再建させた。 大阪守口の自宅には「芭蕉堂」を建てた。[3]

2005年9月30日心不全のため死去した。101歳没[4]。生前は社団法人日本南画院会長として、「日本南画が中国より発展し、日本風土に適し、水と墨を主体にした世界にも類のない東洋独自の表現様式は、世界に誇るべき独自の芸術である」と日本南画の素晴らしさを語っていた。

経歴

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個人美術館

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関連項目

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脚注

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  1. ^ 1924年(大正13年)に、矢野橋村が、福岡青嵐、斉藤与里、直木三十五らと大阪市南区天王寺悲田院町に設立した学校。1929年(昭和4年)に河内郡牧野町御殿山に移転し、1944年(昭和19年)に陸軍による建物接収まで続く。詳細は、小辻昌平「大阪美術学校の設立と創成期~大正末期から昭和初期の大阪での芸術運動の変遷~」(マイルドHOPEゾーン平成24年度調査研究事業)を参照。
  2. ^ 俳句は「ホトトギス」で高浜虚子に学び、句画禅一如を説いた。
  3. ^ 季刊『禅画報』創刊号 発行 自在の句画人生 南画家 直原玉青 千眞工藝発行 1987年9月 p.2
  4. ^ 直原玉青氏が死去/現代南画の第一人者”. 四国新聞社 (2005年9月30日). 2021年12月9日閲覧。

外部リンク

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