益井元右衛門
益井 元右衛門(ますい がんえもん、1804年(文化元年) - 1885年(明治18年)5月14日[1])は、幕末・明治期の部落改善運動家。
概要
編集山城国愛宕郡蓮台野村年寄。安政・文久年間から生活困窮者に対して金銭や衣類などを与え、模範的住民を顕彰するなど、蓮台野村の名望家であり、村内の教育、衛生、救恤に尽力した。1868年(明治元年)、天皇が京都を去ることが決まったとき、供奉の願書を、また1870年(明治3年)には、息子・茂平とともに部落民に対する身分引上げの請願書を京都府に提出。同年、私費を投じて学校(後の楽只小学校)を建設。茂平らとともに自らも教鞭を執った[1]。
身分引上げの請願
編集1870年(明治3年)1月、京都府に以下の汚名廃止の請願書を提出[1]。
恐れ乍ら歎願奉り候口上書一、一昨辰年八月元右衛門より供奉の願書差上げ奉り候節、由緒有増申上げ奉り候通り、私共類村の義、在昔は奥羽の土民に御座候。尤も其辺総て東夷(蝦夷)と称せられ、王化に復し奉らざる者もこれあり、遂に日本武尊御征伐あらせらる其の御凱陣の砌、御連れ帰り、扈従し奉り候処、伊勢神宮に御留置きなされ、夫より当時の帝御鳳闕左右に近づかせられ候事、日本書紀にも御座候。
一、応神帝国境を御定め玉ひし時、針間国神崎郡瓦村崗辺にて青菜の其川より流れ下るを伊許自別命を以て御求め遊ばされ候処、日本武尊に復帰しものに付、帝更に尊の前功を御思慕あらせられ、命を以て姓佐伯直を賜ひ、其復帰しものの君と遊ばされ候由。姓氏録等に相見へ、其時より佐伯部と相成り候様存じ奉り候。
一、仁徳帝御時御憎しみを蒙り五ヶ国へ散乱、其後安康帝皇子の帳内、私達祖先佐伯部仲子、近江国来田綿蚊屋野え供奉、終に忠死仕り候事も御座候。且、仁賢帝の御代、国郡に散亡の佐伯部を御捜求あらせられ候事等も書紀に相見へ申し候。
一、猶又、古より今に至り小法師と相唱へ、私村内より平常両人或は三人、御用多端に向ひ候時は八人迄相詰め、御苑の掃除役仰付けさせらるるの刻、御築地内に部屋下置かれ日々同所へ出勤、御扶持方頂戴、其外年始・八朔は未明より麻上下にて御紋(菊紋)付箱提灯を持たせ、式礼、献上物いたし、下され物も御座候。又、御奏者所に於いて青緡銭三貫文、又、長橋御局に於いて白木綿一疋是を拝領、且御台所にては御雑煮頂戴、七日七草餅、十五日には小豆粥、其外五日、六日、十四日には穂長汁頂戴。尚又、例年季冬には箒料として銀六十七匁七分下置かれ、其他、諸家様御献上米等これあり候得ば、一々御配分も仰付けられ、猶、五節句には御酒肴、御亥の子には御玄猪箱入りの牡丹餅、花栗、其外とも頂戴仕る。御煤払の節は忝けなくも内殿の御前にて御式あらせられ候て、厚おかべ、味噌懸豆腐、土器にて八枚銘々へ下し賜り候。其砌にも、御酒も下され候得共、私共一同の者右同様下され物等相願ひ候儀には御座なく候。猶又、御大礼の節吉凶共下され物御座候。
一、年頭の節、小法師より差上げ奉り候藁箒の儀は、御殿内において例年正月二日早朝御式あらせられ候御餝付の御一品に相備り候と承り候由。尤も是迄年始・八朔には献上物いたし候者は数家御座候得共、昨(明治二年)巳の春より多分御廃止に相成り、然る処、右小法師より差上げ奉り候藁箒の儀は旧例の通り献上仕り候様御沙汰に付、相替らず献納仕り候。然る処、昨巳冬御沙汰これあり候には、例年正月二日差上げ奉る藁箒の内、御上様へ献上いたし候七つ子と唱へ候分、東京に御廻はしに相成り候間、十二月十二日迄差上げ奉るべき様仰付け為し下し、日限相違なく献納仕り候。猶、其外五つ子と唱へ候分は例年の通り正月二日早朝献上仕り候儀に御座候。
一、諸国神祭には旧例を以て間々私共類村のもと二衣を着け罷出で候儀に御座候。是等往昔の余風残りこれあり候儀かと相見へ申し候。右の通りに御座候処、私共類村のもの多分殺業を嗜み来り、然る処、仏説御国内に蔓延候時より世上専ら殺生を悪み、終に足利御執政の比、誰となく穢多の字を付け候様成り行き候由、且、閑田耕筆には穢多と唱ふは餌取りし字とに、之れ又、和名抄には屠者恵止利と記し、人倫漁猟之部に加へ御座候。然而時は穢多と申すは屠者にて、則ち方今の漁師にて、他にもこれあり候を穢多と申し候へば人外異物の如く賤められ、殊に市交も追々衰微仕り候は実に残念の至りと類村共何れも悲観罷在り候。前条の通り、往昔は佐伯部と迄仰付けられ、自分微功も相立て候を、近年は穢多と迄汚名を受け、方今上を犯し下を妨げ、凶暴・悪戻もこれなく、却て或は仁義・忠孝の心を勉励仕り候ものもこれあり候へ共、市中の交りも絶果て候様成り行き、歎かわ敷く存じ奉り候。然る処、今般御復古、有難くも衆庶の御撫育を専一に遊ばせられ感戴至極、殊に旧弊御一洗の折柄、私共類村に至りて迄、素より神州の生民に候処、却て穢多の名これあり候は何共歎かわ敷く存じ奉り候。獣類に合わせて皮角の品取扱ひ渡世仕り候者も御座候得共、是又、恐れ乍ら御国用の一端にも相成り申すべき哉。且、田舎向きにては多分農業而已にて右様の品取扱ひいたし候もの一向御座なく候。何卒往古の如く穢多の身分を省き、士民同様に御取扱ひ下せられ度く、伏して歎願奉り候。万の一御容許成下せられ候はば、一統何れも蘇生致し候心地にて御髙恩猶如何許り歟有難き仕合せに存じ奉るべく候。以上。
明治三庚午年正月廿日
山城国愛宕郡蓮台野村
年寄元右衛門
同年12月、元右衛門の息子・茂平が鉄道敷設に関わり以下の汚名廃止を嘆願[1]。
京都千本升屋茂兵衛殿発起して京府え旧冬臘月十七日に差上げ奉り候処、御聞済みに相成り、追ての御沙汰これある趣。一、鉄道の儀、御所開遊ばされ候皆、下賤の身迄も御国益感戴奉り候に附きては、類村共元来奥羽の土民に御座候所、妄行の者もこれある故歟、何の頃より遂に穢多の汚名を請来り、賤者と雖も、素より御国民の故か、類村の者共慙愧致さざる間迚は御座なく候。然し乍ら今日迄相続仕り候て復古御一新に逢ひ奉り候儀は、又以て幸甚の至に存じ奉り候。此御時に当り、何を歟、微忠をも尽くし、一度汚名を雪ぐべしと日夜心魂を動し居り、且又、兼ねて御国恩に報じ奉るべき儀もと打過ぎ居り候折柄、鉄道の儀を拝承仕り、これに仍て御当地並びに大阪渡辺其外類村同志の者申合せ、京より伏見迄の所、路途の失費献金仕り度く、其法、先づ山城・大和・河内・和泉・摂津・紀井・丹波・近江・播磨にて五百か村斗りこれある重立ち候もの、一村弐百人此ものより相応の出金仕り、其他小躬のものは運送等の人足に差出し、猶其余諸国類村に至る迄法の如く致させ候はば恙なく成就致すべき哉。御許容にも相成り候得ば早々取懸り申し度く、就いては類村汚名の儀廃させられ、往古の如く奥羽の民同様に御取扱ひ成下され間歎き哉と竊に願望仕り居り候。尤も此儀、御当地は勿論、渡辺村におゐても兼ねて志願の儀に御座候。猶其他類村に至る迄會て汚名の儀相歎き居り候に付、元の如く奥羽の民同様に成下され候はば、献金に付聊かも異存決して御座なく候。然り乍ら何分にも下賤の者迚斯くの如きの事を願上げ奉るの儀、恐入り奉るの儀と差扣居り候。然りと雖も方今言路御洞察にも相成り、誠に悪を去り善に向ふは人倫の道と多罪を願りみず、類村伝来の書相添へ、此段懇願奉り候。万々一御採用にも相成り候歟、右雑言の程咎めさせられずんば同志のもの重々有難き仕合わせに存じ奉り候。以上。
明治三庚午歳十二月十七日
嘆願書には、大阪渡辺村等の同士と相談し近畿一円の類村に呼びかけて鉄道敷設の費用、労力を提供してもよいと記されている。つまり、提供できるだけの財力・労力があり、それらを類村に呼びかけるネットワークが形作られ意思疎通が図られていることを示している。事実、この嘆願書は大阪南王子村で見つかっている。ちなみに、関西で最初の鉄道は1874年(明治7年)に大阪・神戸間が開通するが、現在の京都駅までの区間が開通し営業運転が始まるのは1877年(明治10年)2月のことである。1870年といえば、阪神間の路線測量が始まったばかりであり、資金調達が民間に呼びかけられるのが翌年の6月、鉄道建設会社が発足(中心は三井家)するのは9月ということから考えると、茂平や類村の人々が新しい時代にいかに期待をもっていたかがわかる[2]。後に茂平の養子・信が益井家の士族編入を内務大臣に願い出て、1900年(明治33年)7月12日に認められる。士族株を買わずに願い出て士族になった稀な例とされる[1]。
家族・親族
編集- 益井家