皆川成勝
日本の戦国時代の武将・大名。下野皆川城主皆川宗成長男で、宗成系皆川氏2代当主
皆川 成勝(みながわ しげかつ)は戦国時代の武将・戦国大名で、下野の皆川氏の当主。皆川城主。
時代 | 戦国時代 |
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生誕 | 不詳 |
死没 | 天文20年2月26日(1551年4月2日) |
戒名 | 建幢勝公(法名) |
官位 | 山城守 |
氏族 | 皆川氏 |
父母 | 父:皆川宗成 |
子 | 俊宗、又五郎[1]、宣英[2] |
生涯
編集永正年間に皆川宗成の嫡男として誕生。大永3年(1523年)に河原田合戦で父が戦死したことで成勝は皆川氏の次代の当主となった。
成勝の代になると皆川氏は宇都宮氏に臣従している。また、嫡男の俊宗の烏帽子親に宇都宮俊綱を選んでいる。成勝がこういった動きに出た理由の1つとして近隣に位置する宇都宮氏の一族壬生氏の勢力が増大したことに対抗するために壬生氏を従えている宇都宮氏に臣従することでその脅威から身を守ろうとしたのだという。
天文年間に天文の内訌が起こり、宇都宮俊綱と重臣の芳賀高経が対立すると、成勝は従兄弟の富田忠宗(富田城主)とともに高経を味方し宇都宮氏と敵対した。
内訌後は再び宇都宮氏に臣従し、壬生綱雄が宇都宮俊綱と敵対した際は今度は俊綱に味方し、富田忠宗や宇都宮一門の西方氏とともに壬生氏を攻撃した。
脚注・出典
編集参考文献
編集江田郁夫『下野長沼氏』(戒光祥出版、2012年) ISBN 978-4-86403-064-9