百済王 貞連(くだらのこにきし さだつら / ていれん)は、平安時代中期の貴族平将門の乱の遠因をつくったことで知られる。

 
百済貞連
時代 平安時代中期
生誕 不明
死没 不明
別名 貞運
官位 従五位下上総介武蔵守
氏族 百済王氏
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経歴 

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延元元年(923年)には内舎人として名が見える[1]

承平9年(939年)5月には武蔵守として武蔵国に下向した(なお、類聚符宣抄第八には「前上総介・従五位下」と記されているため、923年から939年の間に上総介を拝任し、従五位下に叙されたことがわかる)。しかし、貞連は武蔵権守・興世王と不仲で[注 1]、貞連は興世王を国庁の会議に全く列席させなかったため、興世王は任地を離れて下総国平将門のもとに身を寄せた。これが平将門の乱の遠因となった[1]

補注

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注釈

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  1. ^ 『将門記』に興世王と百済王貞連は「姻婭ノ中」(=姻戚関係)とあり、『楊守敬旧蔵本』に「姻婭」に「アヒムコ」と附訓を施している事から、お互いの妻が姉妹であったとみられる。

出典

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関連項目

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