白鳥数馬
江戸時代末期から明治時代中期にかけての弘前藩士
白鳥 数馬(しらとり かずま、白取数馬とも。本名:白鳥 英茂(しらとり ひでしげ))は、江戸時代末期の弘前藩士。白鳥家は弘前藩二代藩主津軽信枚の母親栄源院の生家。
時代 | 江戸時代末期 - 明治時代中期 |
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生誕 | 文政6年(1823年)9月 |
死没 | 明治31年(1898年)4月18日 |
別名 | 通称:数馬 |
戒名 | 武長院殿賢誉法務正観清居士 |
墓所 | 貞昌寺 |
官位 | 贈従五位 |
主君 | 津軽承昭 |
藩 | 陸奥弘前藩 |
氏族 | 白鳥氏 |
父母 | 白鳥英範 |
兄弟 | 白鳥数馬、高杉左膳 |
子 | 白鳥良太郎 |
生涯
編集白鳥英範の長男として生まれる。安政6年(1859年)3月に家督を相続する。三百石を食む[1]。
元治元年(1864年)3月、藩命で箱館千代ヶ岱陣屋の営将となる。慶応4年(1868年)4月、戊辰戦争の庄内征討秋田慶援隊の副長として従軍する[1]。同年5月、藩が幕府側に寄り、澤為量の通行を阻もうとするが、数馬は反対し、藩主に勤王の大義を説き、通行を許可する[1]。
同年7月、馬廻組頭となり、庄内征討秋田慶援隊の大隊長に任命されるが、藩の老臣と意見が合わず、職を免じられる[1]。
明治2年(1869年)藩政改革の際に、軍監に任命され、翌年に大隊長に転じる。明治5年(1872年)10月、家督を長男・良太郎に譲る[1]。
明治14年(1881年)9月に氏を「白取」から「白鳥」に改める[2]。
死去後の大正4年(1915年)10月24日、勤王の功により、特旨を以て、従五位を贈られる。また、同様に、弟の高杉左膳も贈従五位。兄弟共に王事に勤労した[3]。
親族
編集参考文献
編集- 森林助『弘前藩小史と贈位者伝』(弘前図書館、1929年)