白鳥塚古墳 (宝塚市)
白鳥塚古墳(はくちょうづかこふん)または中山寺古墳(なかやまでらこふん)は、兵庫県宝塚市中山寺にある古墳。兵庫県指定史跡に指定されている(指定名称は「中山寺古墳」)。
白鳥塚古墳 / 中山寺古墳 | |
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石室開口部 | |
別名 | 石の唐櫃 |
所在地 |
兵庫県宝塚市中山寺2丁目 (中山寺境内) |
位置 | 北緯34度49分16.40秒 東経135度22分3.63秒 / 北緯34.8212222度 東経135.3676750度座標: 北緯34度49分16.40秒 東経135度22分3.63秒 / 北緯34.8212222度 東経135.3676750度 |
形状 | 不明 |
埋葬施設 |
両袖式横穴式石室 (内部に刳抜式家形石棺) |
築造時期 | 6世紀末-7世紀初頭 |
史跡 | 兵庫県指定史跡「中山寺古墳」 |
地図 |
概要
編集兵庫県東部、長尾山丘陵の南麓に築造された古墳である。現在は中山寺境内に所在する。これまでに墳丘は大きく改変を受けているほか、石室実測調査が実施されているが発掘調査は実施されていない。
墳丘の元の形状は改変のため明らかでない(一説に一辺約25メートル以上の方墳)[1]。埋葬施設は両袖式の横穴式石室で、南東方向に開口する。石室現存長16.2メートルを測る大型石室で、石材には花崗岩の巨石を使用する[2]。石室の玄室内には加古川流域産の成層ハイアロクラスタイト[3](竜山石)製の刳抜式家形石棺を据える[2]。副葬品は詳らかでない。
築造時期は、古墳時代後期-終末期の6世紀末-7世紀初頭[4](TK209型式期[2])頃と推定される[2]。長尾山丘陵では丘陵東半部で群集墳の営造が知られるが、本古墳はそれらとはやや離れた位置に築造される。本古墳の石室は長尾山丘陵では最大規模で大和の大型石室にも匹敵する規模であり、石室の構造も長尾山丘陵の石室よりは大和の石室に共通性が認められる点で特色を示す[2]。特異な八角墳として知られる中山荘園古墳(宝塚市中山荘園)と合わせて、西摂平野に勢力を有した大豪族の存在を示唆する点で重要視される古墳になる[1]。なお被葬者は明らかでないが、中山寺の寺伝では第14代仲哀天皇の先皇后の大中姫とする。
遺跡歴
編集埋葬施設
編集埋葬施設としては両袖式横穴式石室が構築されており、南東方向に開口する。石室の規模は次の通り[2]。
- 石室全長:現存16.2メートル
- 玄室:長さ5.5メートル、幅2.4メートル(中央付近)、高さ2.9メートル(奥壁付近)
- 羨道:長さ10.6メートル、幅1.8メートル(玄門付近)、高さ2.0メートル(玄門付近)
石室の石材には主に花崗岩の巨石が使用され、一部に結晶質凝灰岩が用いられる[2]。玄室の奥壁は3段積みで、側壁は2-3段積み[2]。玄室の天井石は2枚[2]。後世の改変として、玄門に石枠・鉄扉が設置されているほか、羨道の開口部には小型石材が追加され、玄室・羨道の床面に敷石やその境に段が付加されている[2]。
石室の玄室内の中央北寄りには加古川流域産の成層ハイアロクラスタイト[3](竜山石)製の刳抜式家形石棺1基を据える。石棺の規模は次の通り。
- 棺身:長さ1.80メートル、幅1.06メートル、高さ0.66メートル
- 蓋石:長さ1.90メートル、幅1.16メートル、高さ0.49メートル
棺身は原位置を保つ可能性が高いとされる[2]。蓋石には前後1対・左右2対の縄掛突起計6個を付す[2]。蓋石の上部平坦面指数(上部平坦面幅の全体幅に対する割合)は43[2]。
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玄室(奥壁方向)
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玄室の家形石棺
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羨道(開口部方向)
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羨道(玄室方向)
文化財
編集兵庫県指定文化財
編集- 史跡
- 中山寺古墳 - 1960年(昭和35年)3月31日指定[5]。
脚注
編集参考文献
編集(記事執筆に使用した文献)
- 史跡説明板(兵庫県教育委員会、1974年設置)
- 調査報告書
- 『兵庫県宝塚市 白鳥塚古墳・山本古墳群 -ゴーランド調査古墳の研究1-』ゴーランド・コレクション調査プロジェクト〈ゴーランド・コレクション調査研究報告書第1号〉、2017年。 - リンクは奈良文化財研究所「全国遺跡報告総覧」。
- 事典類
- 福井英治「白鳥塚古墳」『日本古墳大辞典』東京堂出版、1989年。ISBN 4490102607。
- 「中山寺古墳」『兵庫県の地名II』平凡社〈日本歴史地名大系29-2〉、1999年。ISBN 4582490611。
関連文献
編集(記事執筆に使用していない関連文献)
- 直宮憲一「中山寺白鳥塚古墳について」『中山寺の歴史と文化財』大本山中山寺、1999年。