畿内政権論
畿内政権論(きないせいけんろん)または畿内王権論(きないおうけんろん)は、東北大学教授であった関晃によって提唱された、ヤマト王権の実態は貴族共和政もしくは選挙王政だったとする学説、およびそれに関する一連の議論である。
概要
編集戦後の日本古代史学界は戦前の反動もあり、マルクス主義史学が主流となった[1]。マルクス主義史学では資本制生産に先行する土地所有形態のひとつとして、アジアでは強固な共同体的土地所有を基礎にした「専制君主制」が必然的に成立するとし、これを「アジア的(東洋的)専制君主制」と命名し、これを日本の歴史にもあてはめようとしたため、マルクス主義史学の影響の強い研究者は日本古代は専制君主制国家の時代であることを前提としていた。
それに対し東北大学教授であった関晃が1952年に『新日本史大系』第二巻の「古代社会」において、日本古代国家(ヤマト王権)の実態は大王家による専制政権ではなく「近畿地方の氏族連合(畿内ブロック)による全国支配」であるとする見方を呈した。この説はマルクス主義史学の研究者から猛烈な批判を受け、当時では邪馬台国の所在地論争に次ぐ激しい論争となっていたと言われている[2]。
関によれば、日本古代には「大臣」、「大連(おおむらじ)」の下に「マエツギミ」(大夫/群臣/群卿/侍臣/卿大夫)と呼ばれる畿内の有力豪族層が存在し、朝政に参議し、奏宣を行い朝廷権力の主要部を形成し、大化の改新前後も変化なく存続した[3]。「マエツギミ」は推古朝の冠位十二階では第一位の大徳、第二位の小徳に相当し、律令の位階では「五位」以上のものに相当する。日本古代の豪族層がのちの律令制時代の貴族となっていくのであり、まさに「畿内ブロックの全国支配」であったという[3]。