畠山 国儔(はたけやま くにとも[1])は、江戸時代中期から後期にかけての高家旗本

 
畠山 国儔
時代 江戸時代中期 - 後期
生誕 宝暦9年(1759年
死没 享和元年(1801年
別名 右膳、二郎四郎(通称)
幕府 江戸幕府 高家旗本
主君 徳川家治家斉
氏族 高家畠山氏
父母 畠山国祐堀川広益
畠山政如
兄弟 政如義福国儔
市橋長璉
女子、国祥、岩之進、熊之助
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通称は、右膳、二郎四郎[2]

略歴

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高家旗本・畠山国祐の九男として誕生[2]。生母は高家旗本・堀川広益の娘[2]

兄・政如の養子となる[2]安永7年(1778年)12月6日、政如の死去により家督を相続する[2][1]采地5000石[2][1]。同月19日、10代将軍・徳川家治御目見する[2]

生涯、表高家として過ごし、高家職に就くことはなかった。

享和元年(1801年)死去、享年33。

妻は近江国仁正寺藩藩主・市橋長璉の娘[2]。子は、女子、国祥、岩之進、熊之助[2]

脚注

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  1. ^ a b c 小川 1998, p. 2163.
  2. ^ a b c d e f g h i 堀田等 1964, p. 251.

参考文献

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  • 堀田正敦等 編「巻第九十八」『寛政重修諸家譜』 第二(新訂)、続群書類従完成会、1964年6月15日。NDLJP:2983749/132 (要登録)
  • 小川恭一編著『寛政譜以降旗本家百科事典』 第4巻、東洋書林、1998年5月10日。ISBN 4-88721-306-9 

外部リンク

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先代
畠山政如
高家河内畠山家当主
1778年 - 1801年
次代
畠山国祥