田辺 玄々(たなべ げんげん、男性、寛政8年(1796年) – 安政5年12月18日1859年1月21日))は、江戸時代後期の日本の書家篆刻家である。

は祐憲または憲、は伯表、は玄々の他に尚松竹楓園・東田居などがある。通称は飛騨。京都の人。

略伝

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磁印 息機

東寺外山吹町の富裕な家に生まれる。幼い頃より書画を好んだ。武元登々庵に就いて書を学び、高野僧空居より太師流の書法を授かる。画は中林竹洞に師事した。篆刻に巧みで、中年以後は磁印の創作に没頭。粘土で鈕式を作って、印文を刻し焼成して磁印を製作する法を開発している。その精妙さは大いに賞賛された。東寺に候人として仕え、のちに法眼位に叙されている。頼山陽青木木米、僧雲華院大含などの当代一流の文人と交流している。享年66。南部狐塚(京都市南区唐橋)に埋葬される。

著作

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  • 印譜
    • 『玄々瓷印譜』一帙二冊 天保2年(1831年)
    • 『拾玉印譜』

出典

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関連項目

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