田村邦行
田村 邦行(たむら くにみち)は、江戸時代後期の大名。陸奥国一関藩の第8代藩主。官位は従五位下・右京大夫。
時代 | 江戸時代後期 |
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生誕 | 文政3年7月23日(1820年8月31日) |
死没 | 安政4年2月19日(1857年3月14日) |
改名 | 棣之丞(幼名)、顕允、行顕、邦行 |
戒名 | 謙徳院殿温恭崇文大居士 |
墓所 | 東京都港区高輪の東禅寺 |
官位 | 従五位下・右京大夫 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家慶→家定 |
藩 | 陸奥一関藩主 |
氏族 | 田村氏 |
父母 | 父:田村宗顕、母:鈴木氏の娘・縫 |
兄弟 | 邦顕、邦行、鈴木顕泰ら |
妻 |
正室:成瀬正壽の娘・睦 側室:岡田氏の娘・米 |
子 | 通顕 |
生涯
編集文政3年(1820年)7月23日、第6代藩主・田村宗顕の四男として一関にて誕生した。幼名は棣之丞。
天保6年(1835年)9月1日、元服し顕允(あきちか)と名乗る。天保11年(1840年)8月23日、兄で7代藩主の邦顕が跡取りを残さず死去したため、その末期養子となり、11月30日に家督を相続し、行顕に改名。天保12年(1841年)4月25日には邦行へ再改名した。天保13年(1841年)4月11日、犬山藩主・成瀬正寿の娘・睦を正室に迎える。
藩政においては藩校・教成館の再興や医学館、慎成館の創設、西洋式軍隊や砲術の導入、農政改革など、様々な藩政改革を行って多くの成功を収めたため、名君として称えられた。
系譜
編集父母
- 田村宗顕(父)
- 縫(慧明院) - 鈴木氏、側室(母)
正室
- 睦(永貞院) - 成瀬正壽の娘
側室
- 睦(清鏡院) - 岡田氏
子女
- 田村通顕(長男) 生母は清鏡院
参考文献
編集- 『一関市史』第一巻(岩手県一関市、1978年)