田村 文吉(たむら ぶんきち、1886年明治19年)9月22日[1] - 1963年昭和38年)6月26日[1])は、日本政治家実業家位階正三位郵政大臣(第2代)、電気通信大臣(第2代)、参議院議員(2期)、長岡市長(第8代)。北越製紙社長。

田村 文吉
たむら ぶんきち
田村文吉(1920年頃の撮影)
生年月日 1886年9月22日
出生地 日本の旗 日本 新潟県長岡市
没年月日 (1963-06-26) 1963年6月26日(76歳没)
出身校 東京高等商業学校(現一橋大学
前職 北越製紙社長
長岡市長
所属政党 (無所属→)
緑風会
称号 正三位
勲二等旭日重光章
藍綬褒章
長岡市名誉市民

内閣 第3次吉田内閣第1次改造内閣
在任期間 1950年6月28日 - 1951年7月4日

選挙区 新潟県地方区
当選回数 2
在任期間 1947年 - 1959年

第8代長岡市長
在任期間 1945年9月29日 - 1947年3月31日
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来歴

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父・田村文四郎が営んでいた紙商「田村本店」。(『絵画北越商工便覧』坪井政太郎編、大正8(1919)年刊より)

新潟県長岡市の紙問屋田村文四郎の三男として生まれる。新潟県立長岡中学校を経て、1911年東京高等商業学校(一橋大学の前身)専攻科を卒業、越後鉄道に入社し、経理課長として実務経験を積む。

1915年、父たちが設立した北越製紙(現北越コーポレーション)に支配人として入社し、1934年に専務、1940年には社長に就任。工場の新設・拡充をリードし、北越製紙を現在の規模に育て上げた。

また、1928年には長岡工業会を設立して産学官連携を推進し、1944年には新潟県商工経済会の会頭に就任した。

1945年8月1日長岡空襲で市長鶴田義隆が殉職すると、その後任に推されて9月に第8代長岡市長に就任、長岡市の戦災復興に精力的に取り組んだ。

1947年第1回参議院議員通常選挙新潟県地方区から出馬し、初当選。1950年第3次吉田内閣第1次改造内閣では、郵政大臣電気通信大臣を務めた。後に緑風会所属、2期務める。

また財団法人積雪研究会の会長となって、長岡市内に積雪科学館を作り、長岡市立科学博物館の建設にも支援を惜しまなかった。

1962年秋の褒章でパルプ事業に携わってその向上発展に努め関係団体の要職に就いて業界の発展に寄与したとして藍綬褒章受章[2]。翌1963年6月26日死去、76歳。没後、長岡市葬が営まれ、長岡市の名誉市民となった[3]。死没日をもって勲二等旭日重光章追贈、正三位に叙される[4]

脚注

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  1. ^ a b 『全国歴代知事・市長総覧』日外アソシエーツ、2022年、172頁。
  2. ^ 『官報』第10762号729-731頁 昭和37年10月30日号
  3. ^ 名誉市民等”. 長岡市. 2022年8月17日閲覧。
  4. ^ 『官報』第10960号14頁 昭和38年7月1日号
公職
先代
小沢佐重喜
  郵政大臣
第2代:1950年 - 1951年
次代
佐藤栄作
先代
小沢佐重喜
  電気通信大臣
第2代:1950年 - 1951年
次代
佐藤栄作
官職
先代
鶴田義隆
 新潟県長岡市長
官選第8代:1945年 - 1947年
次代
廃止