田峯城(だみねじょう)は、かつて愛知県北設楽郡設楽町田峯にあった日本の城山城)。設楽町指定史跡[1]

logo
logo
田峯城
愛知県
復元された本丸御殿
復元された本丸御殿
別名 蛇頭城
城郭構造 山城
築城主 菅沼定信
築城年 文明2年(1470年
主な城主 菅沼定信菅沼定忠
廃城年 天正10年(1582年
遺構 曲輪、掘
指定文化財 設楽町指定史跡[1]
再建造物 御殿、大手門、搦手門、物見台
位置 愛知県北設楽郡設楽町田峯
北緯35度03分17.1秒 東経137度32分05.2秒 / 北緯35.054750度 東経137.534778度 / 35.054750; 137.534778座標: 北緯35度03分17.1秒 東経137度32分05.2秒 / 北緯35.054750度 東経137.534778度 / 35.054750; 137.534778
地図
田峯城の位置(愛知県内)
田峯城
田峯城
テンプレートを表示

田峰菅沼家菅沼氏)の本城であった。別名は蛇頭城(じゃずがじょう)。笹頭山の中腹に位置する。

歴史

編集
  • 文明2年(1470年) - 菅沼定信が田峯城を築城して本城にする。定信は菅沼一門の総領家・田峰菅沼家菅沼氏)の祖となる。菅沼一門は田峯から豊川流域への版図を拡げる事に腐心する。
  • 天正3年(1575年5月21日(1575年7月9日) - 長篠の戦いで大敗した武田勝頼を伴い、田峯城での慰労を予定していた城主・菅沼定忠(刑部少輔)であったが、留守居の親族・菅沼定直や家老・今泉道善が入城を拒絶。僅か数騎の勝頼一行は身柄を拘束されそうになった為、更に北方の武節城まで命からがらの逃避行を強いられた。
  • 天正4年(1576年7月14日(1576年8月18日) - 前年の入城拒絶という辱めを怨んでいた菅沼定忠は、田峯城を早朝に急襲。老若男女を問わず、城に居た96人総てを惨殺した。菅沼定直や今泉道善に関しては、生け捕りにした後で鋸挽きの刑で報復している。城の近くには「田峯城内乱の首塚」と「道善処刑の地」が存在する。
  • 天正10年(1582年) - 甲州征伐武田勝頼が滅ぼされ、後ろ盾を失った菅沼定忠も討たれた。田峯菅沼氏徳川家康の後ろ立てにより、菅沼定利が継いだ。この頃、田峯城が廃城となる。

構造

編集

丘陵地の上に本丸が置かれ、本丸の周りに武家屋敷などが築かれている。城内にあった復元本丸御殿、本丸大手門、搦手門が復元されている。

画像

編集

現地情報

編集
所在地
アクセス
周辺施設

脚注

編集
  1. ^ a b 設楽の文化財”. 設楽町 (2022年3月28日). 2022年8月23日閲覧。

関連項目

編集

外部リンク

編集
  • 田峯城 愛知の公式観光ガイド AICHI NOW