田尻 惟信(たじり これのぶ)は、江戸時代前期の武士筑後国柳河藩の藩士。藩職は普請役[1]家格は組外書院番。石高は100石。田尻惣馬の名で知られる。

 
田尻惟信
時代 江戸時代中期から後期
生誕 延宝6年(1678年
死没 宝暦10年7月16日1760年7月26日
別名 幼名:又太郎。通称:惣馬、惣次、惣右衛門。俗称:鬼奉行
戒名 専徳院活山自道居士
墓所 山門郡瀬高町九品寺
官位 なし
主君 立花鑑虎鑑任貞俶貞則鑑通
筑後国柳河藩浪人→柳河藩。普請役
氏族 大神氏族田尻氏
父母 父:田尻惟貞(惣助)。母:村上氏。
大石勝助の娘
一男二女
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経歴

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延宝6年(1678年)、筑後柳河藩士・田尻惟貞の子として誕生。

3代藩主・立花鑑虎の時に組外書院番から、十時摂津組に転属し、16歳で扶持米を拝領。元禄8年(1695年)に江戸に上る。矢部川改修や回水路新設、柳河藩領の有明海海岸埋め立てや磯島・唐男・高碇井堰の新設などの土木事業に貢献した。

元禄14年(1701年)に病気のために暇をもらい浪人となり、宝永6年2月28日1709年)に以前と同じ扶持米をもらい再仕官する。後に城中普請役および在方普請役に同時就任した。

宝暦10年(1760年)、死去。

父・田尻惟貞

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父の田尻惟貞永禄年間に立花道雪に仕えた田尻鑑春(河内守)から6代目の子孫という。惟信は惟貞の次男にあたる。通称は惣助。

元禄年間に柳河藩の普請役に就任し、柳河藩の領内絵地図の作成に従事。元禄8年(1695年)に、上妻郡北山村の曲り松から山下までの矢部川沿岸1300の千間土居の築堤工事が行われるが、この主任となる。

元禄10年(1697年)には藩命により別業御茶屋集景亭を完成させる。これは後に藩主家別邸の御花畠(現在の立花氏庭園「御花」)の前身となる。

脚注

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  1. ^ 他藩の普請奉行相当。宝暦年間まで柳河藩に奉行(後に中老)という職があり、それと混同を避けるためか、柳河藩役職名には「○○奉行」よりも「○○役」の方が多い

参考文献

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