田中慶秋
田中 慶秋(たなか けいしゅう、1938年〈昭和13年〉3月6日 - 2022年〈令和4年〉1月4日)は、日本の政治家。衆議院議員(6期)、法務大臣(第90代)、衆議院労働委員長、内閣委員長、経済産業委員長、国家基本政策委員長、民主党副代表、民社協会会長等を歴任。
田中 慶秋 たなか けいしゅう | |
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生年月日 | 1938年3月6日 |
出生地 | 日本 福島県双葉郡浪江町 |
没年月日 | 2022年1月4日(83歳没) |
死没地 | 日本 神奈川県横浜市 |
出身校 | 東海大学工学部電気工学科卒業 |
前職 |
小糸工業従業員 衆議院議員 |
所属政党 |
(民社党→) (新進党→) (新党友愛→) (民主党(高木G)→) 民進党 |
称号 |
正四位 旭日重光章 工学士(東海大学・1961年) |
親族 |
曽我部久美子(義妹) 後藤田弥生(長女) |
公式サイト | 闘い続ける。前衆議院議員・田中けいしゅうホームページ(2013年12月9日時点のアーカイブ) |
内閣 | 野田第3次改造内閣 |
在任期間 | 2012年10月1日 - 2012年10月23日 |
選挙区 |
(旧神奈川4区→) 神奈川5区 |
当選回数 | 6回 |
在任期間 |
1983年12月18日 - 1990年1月24日 1996年10月20日 - 2005年8月8日 2009年8月30日 - 2012年11月16日 |
当選回数 | 3回 |
在任期間 | 1971年 - 1983年 |
政治活動では田中 けいしゅうの表記も用いており、野田第3次改造内閣において入閣した際は「官報」には本名の「田中慶秋」及び政治活動時の名義である「田中けいしゅう」が併記された[1]。
来歴
編集福島県双葉郡浪江町生まれ。1961年、東海大学工学部卒業後、小糸工業に入社する。労働組合活動に参加し、ゼンキン同盟小糸工業支部委員長や書記長、横浜地区同盟副議長を務めた。
1971年、神奈川県議会議員選挙に立候補し、初当選。神奈川県議を3期12年務めた後、1983年の第37回衆議院議員総選挙に民社党公認で旧神奈川4区(定数4)から立候補し、当選。1986年の第38回衆議院議員総選挙でも再選するが、1990年の第39回衆議院議員総選挙では、リクルート事件への関与が取り沙汰され、落選。1993年の第40回衆議院議員総選挙に再起を期して立候補するが、新党ブームの煽りを受けて新党さきがけ、新生党の候補者が高い得票数で当選する一方、民社党公認の田中は非自民でありながら再び落選した。旧神奈川4区では、第39回衆議院議員総選挙以降は日本社会党が大出俊に加え、池田元久を擁立したため、民社党の田中は苦戦を強いられ、2度にわたる落選を経験した。
1994年、民社党の解党により新進党の結成に参加。1996年の第41回衆議院議員総選挙では小選挙区比例代表並立制の導入に伴い神奈川5区から立候補し、6年ぶりに返り咲きを果たした。1997年、新進党解党に伴い翌年の新党友愛結党に参加。1998年、民主党に合流する。
2005年の第44回衆議院議員総選挙では、自由民主党の坂井学に敗れ、比例復活もならず落選した。2009年の第45回衆議院議員総選挙では、神奈川5区で坂井に比例復活すら許さぬ大差で6期目の当選を果たす。同年、衆議院内閣委員長に就任。2010年、衆議院経済産業委員長に就任。
2011年の民主党代表選挙において、田中自身は前原誠司への支持を示唆するも、田中が所属する川端グループ(民社協会)内では支持候補を一本化できなかったため、自主投票を決定した。9月、民主党副代表、衆議院国家基本政策委員長に就任。2012年10月、野田第3次改造内閣で法務大臣[1]及び「北朝鮮による拉致問題の早期解決を図るため企画立案及び行政各部の所管する事務の調整」[1]を担当する国務大臣(拉致問題担当大臣)に任命され、初入閣を果たしたが、大臣就任直後に複数の不祥事が発覚し、就任からわずか3週間で「体調不良」を理由に法務大臣・拉致問題担当大臣を辞任した[2]。法相ポストは国家公安委員会委員長の小平忠正が臨時代理を務めた後[3]、田中の前任者である滝実が再び起用され[4]、拉致問題担当大臣は内閣官房長官の藤村修が兼任した。同年12月の第46回衆議院議員総選挙では、神奈川5区で自民党元職の坂井学、みんなの党、日本維新の会の新人候補の後塵を拝する得票数4位で惨敗し、比例復活もならず落選した。
2014年4月、旭日重光章を受章。同年5月、政界から引退する意向を表明した[5]。 2014年12月、第47回衆議院議員総選挙に長女の後藤田弥生が自身の選挙区と同じ神奈川5区から無所属で立候補したが落選した[6]。
2016年、第24回参議院議員通常選挙に神奈川県選挙区から立候補する民進党の金子洋一の選挙対策本部長に就任した。これは普通は現職の国会議員が就く事が多く、党内の旧民主党グループの連帯を疑問視する見方もあった[7]。
2022年1月4日、死去。83歳没。2021年9月以降、肝硬変の治療のため横浜市内の病院に入院し、その後は同市内の高齢者施設に移っていたという[8]。死没日付をもって正四位に叙せられた[9]。
人物
編集不祥事
編集政治資金
編集- 政治資金規正法では、外国人が過半数の株式を所有する会社からの献金を原則禁止しているが、2006年から2009年まで、台湾人飲食店経営者の会社から計42万円の企業献金を受けていたことが法務大臣に就任した直後に判明した。大臣就任前にこの事実を報道したマスコミは存在しなかった。また外国人とされた人物は、横浜生まれの横浜育ちで、日本の大学を卒業した日本定住者であった。違法と指摘された寄附金は、勉強会の資料代などとして徴収していたもので、当該参加費を政治資金法上の「その他の事業」として処理していれば当該法上問題が発生しない行為であった。田中慶秋事務所は、政治資金規正法違反を理由に2012年10月3日に献金を全額返金したと発表した。民主党は、すでに自ら大臣職を辞職し進退を決したことにより責任は果たされたものとして処分を見送った[15]。
- 産経新聞の報道によると、2008年12月、旧厚生省OBで美容外科医師が、診療報酬の不正請求を行った詐欺の疑いで逮捕・起訴され、懲役1年8月の有罪が確定したが(後に医師免許取り消し)、田中が代表を務める民主党神奈川県第5区総支部も2005年12月に医師が代表を務める医療法人社団「天道会」から104万円の献金を受けていた。田中は「(サニークリニック事件に関する)テレビ報道があって3年ほど前に返金した」と釈明した[16][17][18]。
所属団体・議員連盟
編集- 海事振興連盟(副会長・事務総長)
- 恒久平和のために真相究明法の成立を目指す議員連盟
- 人権政策推進議員連盟(顧問)
- 脳卒中対策推進議員連盟(会長)
- サマータイム制度推進議員連盟
- 民主党歯科医療議員連盟(顧問)
- 日本チェコスラヴ友好議員連盟(会長)
- 公益財団法人日本武道館(監事)
脚注
編集- ^ a b c 「人事異動」「官報」号外特29号、国立印刷局、2012年10月1日、1面。
- ^ 田中法相が辞任 野田首相、臨時国会前に事実上の更迭に踏み切る 産経新聞 2012年10月23日閲覧
- ^ 野田首相、後任法相の人選急ぐ=田中氏辞任「任命責任ある」 ロイター・ジャパン 2012年10月23日閲覧
- ^ 滝氏が法相に再任 失点回避狙い首相が判断 産経新聞 2012年10月24日閲覧
- ^ 田中慶秋元法相、引退へ…次期衆院選立候補せず 読売新聞 2014年5月30日閲覧[リンク切れ]
- ^ 衆院選2014神奈川5区 読売新聞 2015年4月17日閲覧
- ^ 朝日新聞デジタル:2人擁立 きしむ自民・民進 - 神奈川 - 地域 朝日新聞 2016年6月1日閲覧
- ^ 田中慶秋 元衆議院議員 死去 83歳 民主党政権で法相など務める- NHK NEWS WEB 2022年1月5日
- ^ 『官報』第665号9頁、令和4年1月31日
- ^ 朝日新聞朝刊 2012年10月2日 7面
- ^ 「東海大学電気工学会役員」『東海大学電気工学会』東海大学電気工学会Webサイト運営管理委員会
- ^ 国会議員署名これまでと今後の展望 - 空港はいらない静岡県民の会(2009年3月7日時点のアーカイブ)
- ^ 「日刊さとう知一」@神奈川県議 2011年11月30日
- ^ 田中法相辞任の意向、野田首相、事実上の更迭に踏み切る(MSN産経、2012/10/20閲覧)
- ^ 朝日新聞2012年10月4日
- ^ MSN産経ニュース 田中法相の「黒い交際」“身体検査”で官邸は把握していた!? 2012.10.13 18:00
- ^ MSN産経ニュース 診療報酬詐取の容疑者、民主・田中慶秋前衆院議員の総支部に献金 2008.12.1 22:42
- ^ 産経新聞 2008年12月2日 27面
関連項目
編集外部リンク
編集- 闘い続ける。前衆議院議員・田中けいしゅうホームページ - ウェイバックマシン(2013年12月9日アーカイブ分)
公職 | ||
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先代 滝実 |
法務大臣 第90代:2012年 |
次代 滝実 |
議会 | ||
先代 樽床伸二 |
衆議院国家基本政策委員長 第13代:2011年 -2012年 |
次代 古賀一成 |
先代 東祥三 |
衆議院経済産業委員長 2010年 - 2011年 |
次代 吉田治 |
先代 渡辺具能 |
衆議院内閣委員長 2009年 - 2010年 |
次代 荒井聰 |
先代 玉置一弥 |
衆議院労働委員長 1998年 |
次代 岩田順介 |