琳聖太子(りんしょうたいし、571年?-667年?)は、大内氏の祖とされる人物。朝鮮半島百済の王族で、第26代聖王(聖明王)の第3王子[1][2]武寧王の孫とされる。名は義照威徳王の孫で餘璋の子とするものもある[3][4]。百済王の齋明の第三子とも[5]

概要

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大内氏所縁の氏神・妙見菩薩を祀る神社、妙見宮鷲頭寺の書に 「推古天皇五年(597年)秋琳聖太子桂木山嶺に御霊を移し、九月九日琳聖太子御参籠ありて百済国より将来の妙見菩薩像を納め北辰星供を修す[6]」とある。

15世紀後半に書かれた『大内多々良氏譜牒』によれば、琳聖太子は大内氏の祖とされ、推古天皇19年(611年)に百済から周防国多々良浜(山口県防府市)に上陸し、聖徳太子から多々良姓とともに領地として大内県(おおうちあがた)を賜ったという。しかし現在の研究では、大内氏は周防国の在庁官人が豪族化して勢力を拡大したという結論に至っており、琳聖太子という人物名は、当時の日本や百済の文献にみることはできない[7]

渡来時について 「百済国の璋(聖)明王の第三の皇子琳聖太子は一夜の夢の中に老翁来て告て『東海に国あり、名て日本と云う。其の国の皇子を聖徳太子と云う。即ち生身の観世音菩薩化身である。』と夢さめ玉いて琳聖太子、これより渡らんと思いしところ、日本より吉備羽嶋が王使として百済国へ渡られ、北辰降臨の由を申し奉り、皇子を日本に迎えたいと百済国王に申したので、琳聖太子は大いに喜んで百司百官を卒いて龍頭の船を飾り、遙に波濤を越えて推古天皇五年(597年)三月二日に周防国佐波郡鞠生(マリフ)の浜(防府)に着船し玉ふ。後に多々良浜と名く[8]。」

出迎えの様子は「時に大和の勅使秦(ハタ)ノ川勝によって、吉敷郡問(トヒ)田ノ村に仮りの王宮を建立し、琳聖太子のもてなしの準備がなされた。秦ノ川勝すなわち秦造川勝は聖徳太子が大変寵愛していた人物であり、百済国からの帰化人であった。後、聖徳太子の助力で、冠位十二位階の第三位大任(ダイニン)の位を、飛鳥寺の本尊を造った百済の帰化人鞍作首鳥(くらつくりおびとり)と共に拝授、大和朝廷貴族に列する様になった。大星降臨の時、坐人に告げられた通り、百済の王子の来朝を聞き、百済国の帰化人秦造川勝を迎えの勅使とされた[9]。」

会見の様子は「聖徳太子にお会いする準備も整い、一路大和へと秦造川勝と共に向かわれた。推古五年四月、灘波の宮にて琳聖太子は聖徳太子と会見する事が出来た。そして琳聖太子は百済国より持ち来たった北斗七星剣を捧げる事が出来た。時に聖徳太子二十四歳、琳聖太子二十六歳の若さであった。聖徳太子は取り敢えず、灘波の生玉の宮を琳聖太子の宮殿とされ、暫く体を癒やすよう指示した。琳聖太子は聖徳太子御建立の四天王寺飛鳥寺等を参拝し、来朝の挨拶も一段落すると、青柳の浦の事を考え、聖徳太子に九月十八日の大星降臨の御縁日にお祭りをしたい旨を伝え、灘波の生玉の宮にも僧侶や家来を残し、青柳の浦に引きかえされた[10]。」

大内氏の百済との繋がりを名乗り始めた大内氏当主が、朝鮮半島との貿易を重視した大内義弘であるとみられる[11]。より朝鮮半島(当時は高麗)との関係を重視するため、琳聖太子なる人物を捏造してその子孫を称したとみられる。外来系の諸侯がいたところで不思議ではないが、それがどこまで世間の「歴史常識」となっているかは疑問であり、外来系と称していながら、ほんとうは怪しいといったケースも多々あり、とくに外来系という系譜を持った家は、大内家に代表される西日本に多い[7][注 1]。「大内」というのは、その居所の広さを時の人が尊んでいったもので、琳聖太子9世の子孫のときから、それを名字にしたというが、福尾猛市郎によると、琳聖太子などというのは、この大内家の先祖に関してしか出てこない名前であり、実在を証明する史料はない[7]。大内家の家系伝承室町時代にできたものとみられ、文献的には応永年間(1394年から1427年)以前には遡れないというのが学界の多数説である[7]

死去の様子は「母国、百済国の滅亡という悲しい出来事の中、琳聖太子は天智六年(667年)六月二十一日、九十六歳の天寿を全うする事になる。その入滅の地は灘波の生玉の宮(移転前の現・難波宮跡辺り)である。葬式の地は百済寺であったと伝えられている[12]。」 又、子孫の義弘は素性を明かして領地を求めたとある「応永六年(1399年)義弘は朝鮮国王・定宗に大内氏が百済国の王の後裔であると述べ『日本では自分の家系を知る者が無いので、それを証明するため旧百済国の一部の土地を少し分けて貰いたい』と要求したのである。朝鮮国の国王定宗は旧百済国の一部の土地を与えようとしている事が「定宗実録」に記録されているが、朝鮮国の重臣達に反対され、この話は有耶無耶に成る[13]。」

李朝実録』によれば、大内氏は応永6年(1399年)に朝鮮へ使節を派遣し、倭寇退治の恩賞として朝鮮半島での領地を要求している。その要求は却下されるものの、貿易は認められており、その貿易での利益が同氏勢力伸長の大きな要因となった。大内政弘の頃には、大内氏の百済系末裔説が知られており、興福寺大乗院門跡尋尊(じんそん)が記した『大乗院寺社雑事記』の文明4年(1472年)の項では、「大内は本来日本人に非ず…或は又高麗人云々」との記述がみえる。 江戸時代林羅山は『寛永諸家系図伝』において、「蜀漢劉備が中山靖王(劉勝)の子孫だといったり、北宋趙匡胤趙広漢の末裔だといったりしているのは途中の系図が切れていて疑わしい。日本の戦国武将の系図にも同様の例が多い」と述べている[14]

家系

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聖王(聖明王)
  ┃
琳聖太子
  ┃
琳龍太子
  ┃
阿部太子
  ┃
世農太子
  ┃
世阿太子
  ┃
阿津太子
  ┃
大内正恒

現在

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大内家の45代当主だという船橋市在住の男性が、2009年に韓国益山市にある百済王陵を訪れ、歓迎を受けた[15][16]

琳聖太子供養塔が山口県山口市大内御堀四丁目の乗福寺に残っている。

脚注

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  1. ^ 松田甲日鮮史話 第2編朝鮮総督府、1926年、1頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/981486/6 
  2. ^ 山口県史 上巻山口県史編纂所、1934年、60頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1226148/100 
  3. ^ 大森金五郎国史概説日本歴史地理学会、1910年、481-484頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/769275/269 
  4. ^ 岡田僑日本外史補 新訳新潮社、1912年、40頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/770670/38 
  5. ^ 妹尾薇谷日本史蹟文庫 群雄の争乱岡田文祥堂、1913年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/905865/25 
  6. ^ “序文”. 妙見さま. 妙見宮鷲頭寺. (1985年4月7日). p. 5. https://adeac.jp/kudamatsu-city/text-list/d100100/ht000050 
  7. ^ a b c d 鈴木眞哉『戦国武将のゴシップ記事』PHP研究所PHP新書〉、2009年5月16日、11-12頁。ISBN 4569709559 
  8. ^ “(1)妙見宮鷲頭寺縁起起”. 妙見さま. 妙見宮鷲頭寺. (1985年4月7日). p. 12. https://adeac.jp/kudamatsu-city/text-list/d100100/ht000110 
  9. ^ “(2)勅使、秦ノ川勝の出迎え”. 妙見さま. 妙見宮鷲頭寺. (1985年4月7日). p. 13. https://adeac.jp/kudamatsu-city/text-list/d100100/ht000120 
  10. ^ “(4)聖徳太子との会見”. 妙見さま. 妙見宮鷲頭寺. (1985年4月7日). p. 15. https://adeac.jp/kudamatsu-city/text-list/d100100/ht000140 
  11. ^ 下松市史 通史編. 松市/郷土資料・文化遺産デジタルアーカイブ. 下松市. (1989). p. 112-113. https://adeac.jp/kudamatsu-city/text-list/d100010/ht010520 
  12. ^ “(26)琳聖太子の死”. 妙見さま. 妙見宮鷲頭寺. (1985年4月7日). p. 37. https://adeac.jp/kudamatsu-city/text-list/d100100/ht000360 
  13. ^ “(7)琳聖太子の後裔・義弘”. 妙見さま. 妙見宮鷲頭寺. (1985年4月7日). p. 44. https://adeac.jp/kudamatsu-city/text-list/d100100/ht000430 
  14. ^ 林亮勝橋本政宣斎木一馬寛永諸家系図伝 第1続群書類従完成会、1980年1月1日、14頁。ISBN 4797102365https://www.google.co.jp/books/edition/寛永諸家系図伝_1/hkC4gvzXLqQC?hl=ja&gbpv=1&pg=PP32&printsec=frontcover 
  15. ^ “百済王家末裔が船橋に! 習志野で企画展、資料など200点展示 千葉”. 産経新聞. (2015年11月18日). オリジナルの2022年1月4日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20220104221631/https://www.sankei.com/article/20151118-OTGRLGUJIZMS5KVKGQLRCY4HNM/ 
  16. ^ 百済と日本結ぶ韓日友好の願い…琳聖太使45世孫 大内公夫さん”. 在日本大韓民国民団. 民団新聞 (2014年3月19日). 2021年1月5日閲覧。
  1. ^ 東日本は西日本から移った家が殆どなのだから、態々言及する必要性が無い。又、この評判の本を論拠とする事に疑問を呈す。https://www.amazon.co.jp/戦国武将のゴシップ記事-PHP新書-鈴木-眞哉/dp/4569709559#reviewsMedley

関連項目

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外部リンク

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