琮
概要
編集多くは軟玉から作られた[1][2]。外形は方柱状で[3]、長軸方向に円形の穴が貫通し、上下端は丸く円筒状になる[4]。方柱部の四隅には浮彫りや細線で、幾何学文様、神面、獣面、巨眼などが彫刻された[1][4]。円筒形の穴は天を、方形の外周は大地を象徴しており[5]、琮は天地の結合のシンボルであると一般に考えられている[6][7]。
琮の起源は良渚文化まで遡り[1][4]、はじめ司祭者の腕輪だったものが、ほどなく据え置きの祭器に転じたと見られる[8]。
良渚文化では璧と共に神権の象徴として祭祀で中心的役割を担い[4][7]、その獣面神崇拝にもとづいて、とりわけ精巧な神人獣面文が施されていた[7]。副葬された状況より、長軸が長いほど所持した者の地位が高かったこと、製作と分配が支配者層によって一元的に管理されていたことが窺える[9]。
良渚文化が衰えたのちも、琮は主に中原龍山文化へ伝播し、さらに西の斉家文化へと伝わっていった。西へと時代が下るにつれ、模倣を繰り返し方柱部の文様が簡略化・無地化されてゆく傾向が見られる[10]。
中原では二里頭文化[11]もしくは二里岡文化[12]の時期に琮はいったん姿を消すが、殷代に再び現れる[12][13]。
周代に至り、琮は礼法で地をまつる玉器として規定された[1][14]。また『周禮』は、諸侯が朝ずる際に天子の后へ献上するものとして琮を記している[12]。
脚注
編集- ^ a b c d 飯島 (2003) p.43
- ^ 松丸ら (2003) p.210
- ^ 二里頭文化や殷墟文化の玉琮には環形のものも多い。(飯島 (2003) p.136)
- ^ a b c d 松丸ら (2003) p.54
- ^ この象徴論は、例えば『淮南子』天文訓の「天道を円と曰い、地道を方と曰う」に見ることができる。(安田 (2000) p.123)
- ^ 安田 (2000) p.123
- ^ a b c 趙ら (2006) p.169
- ^ 岡村 (2008) p.60
- ^ 岡村 (2008) p.61
- ^ 岡村 (2008) p.74
- ^ 松丸ら (2003) p.56
- ^ a b c 飯島 (2003) p.136
- ^ 松丸ら (2003) p.54-56
- ^ 尹 (2007) p.222
参考文献
編集- 安田喜憲『大河文明の誕生(長江文明の探求)』角川書店、2000年。ISBN 978-4045229022。
- 松丸道雄(編)、池田温(編)、斯波義信(編)、神田信夫(編)、濱下武志(編) 編『中国史 1 -先史〜後漢-』山川出版社〈世界歴史大系〉、2003年。ISBN 978-4634461505。
- 飯島武次『中国考古学概論』同成社、2003年。ISBN 978-4886212665。
- 趙春青、秦文生 著、稲畑耕一郎(監) 編『先史―文明への胎動』後藤健(訳)、創元社〈図説 中国文明史 1〉、2006年。ISBN 978-4422202525。
- 尹盛平 著、稲畑耕一郎(監) 編『殷周―文明の原点』荻野友範(訳)、崎川隆(訳)、創元社〈図説 中国文明史 2〉、2007年。ISBN 978-4422202532。
- 岡村秀典『中国文明農業と礼制の考古学』京都大学学術出版会〈学術選書 36、シリーズ:諸文明の起源 6〉、2008年。ISBN 978-4876988365。