王貞風
王 貞風(おう ていふう)は、南朝宋の明帝劉彧の皇后。本貫は琅邪郡臨沂県。高祖父は王導。曾祖父は王劭。祖父は王穆。父は王僧朗。
王皇后 | |
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南朝宋の皇后 | |
在位 |
泰始元年12月20日 - 泰豫元年6月24日 (466年1月22日 - 472年7月15日) |
全名 | 王貞風 |
別称 | 明恭皇后 |
出生 |
元嘉13年(436年) |
死去 |
建元元年10月15日[1] (479年11月14日) 建康 |
配偶者 | 明帝 |
子女 |
劉伯姒(晋陵長公主) 劉伯媛(建安長公主) |
氏族 | 琅邪王氏 |
父親 | 王僧朗 |
経歴
編集王僧朗の娘として生まれた。元嘉25年(448年)、淮陽王妃に立てられた。元嘉29年(452年)、劉彧が湘東王に改封されると、貞風は湘東王妃となった。晋陵長公主劉伯姒と建安長公主劉伯媛を産んだ。泰始元年(465年)、明帝が即位すると、貞風は皇后に立てられた。
泰豫元年(472年)、後廃帝が即位すると、貞風は皇太后となり、弘訓宮を称した。後廃帝に不徳の行為が多く、貞風は帝に対してたびたび訓戒を加えた。帝も始めは従順に聞き入れていたものの、後になって狂態はますますひどくなった。元徽5年(477年)5月5日、貞風は後廃帝に玉柄毛扇を与えたが、帝はその華美でないのが気に入らず、貞風を毒殺しようと、太医に薬を調合するよう命じた。側近が諫めたため、帝はようやく取りやめた。
順帝が即位し、蕭道成が権力を握ると、劉晃・劉綽・卜伯興らが政変を計画し、貞風はこれに強く関与した。建元元年(479年)4月、順帝が蕭道成に帝位を譲ると、貞風は順帝とともに東邸にうつり、さらに丹陽宮に移住して、汝陰王太妃となった。5月、順帝が丹陽で死去すると、貞風は建康に邸を建てられて移った。同年10月にその邸で死去した。享年は44。明恭皇后と追諡され、宋の皇后の礼で葬られた。