王裕之
王 裕之(おう ゆうし、升平5年(361年)- 元嘉25年7月13日[1](448年8月27日))は、東晋から南朝宋にかけての官僚。字は敬弘。本貫は琅邪郡臨沂県。
経歴
編集晋陵郡太守の王茂之(王廙の子の王胡之の子)の子として生まれた。琅邪国左常侍を初任とし、衛軍参軍に転じた。後に天門郡太守となった。桓玄の姉を妻としたが、江陵に置いたまま迎えようとせず、任地で悠々自適に暮らした。桓偉の下で安西長史・南平郡太守となった。まもなく官を辞して、作唐県の境に居住した。桓玄が政権を握ると、裕之はたびたび招聘があったが、応じようとしなかった。
劉裕の下で車騎従事中郎となり、次いで徐州治中従事史をつとめた。さらに劉道規の下で征西諮議参軍となった。後に中書侍郎として朝廷に召されると、作唐県から家族を連れて建康に入った。長らく経って黄門侍郎に任じられたが、受けなかった。太尉従事中郎となり、呉興郡太守として出向した。まもなく侍中として召還された。義熙11年(415年)、劉裕が荊州の司馬休之を討つと、裕之は安帝の命を受けて慰労の使者に立った。通事令史の潘尚が道中で病にかかったため、裕之がかれを船で送り返したところ、御史の奏上により免官された。まもなく赦令が出て官に復帰した。宋国が建てられると、度支尚書となり、太常に転じた。
永初元年(420年)、劉裕が帝位につくと、裕之は宣訓衛尉に任じられ、散騎常侍の位を加えられた。永初3年(422年)、吏部尚書に転じた。廬陵王劉義真の師に任じられたが、王の師範たる徳がないとして、固辞した。さらに秘書監に任じられたが、やはり受けなかった。
景平2年(424年)、文帝が即位すると、散騎常侍・金紫光禄大夫の位を受け、江夏王劉義恭の師を兼ねた。元嘉3年(426年)2月、尚書左僕射となった。行政文書を読まず、文帝の諮問に答えることもできず、実務上の無能をさらけ出して文帝の不興を買った。元嘉6年(429年)4月、尚書令に任じられたが、固辞した。5月、侍中・特進・左光禄大夫に任じられたが、侍中・特進については固辞し、東方の自邸に帰って隠棲生活に入った。元嘉12年(435年)、太子少傅として召されたが、上京して謝絶し、受けなかった。
子女
編集- 王恢之(秘書郎、新安郡太守、中大夫)
- 王粲之
- 王瓚之(吏部尚書、金紫光禄大夫)
- 王昇之(都官尚書)
- 王謙之
脚注
編集- ^ 『宋書』巻5, 文帝紀 元嘉二十五年七月壬午条による。