王神念
経歴
編集北魏に仕えて州主簿を初任とした。正始元年(504年)、神念は統軍として南征に従軍し、傅豎眼とともに大峴・東関・九山・淮陵に進軍して宿営した。神念は関要・潁川の2城を攻め落とし、南朝梁の軍主の費尼を斬った[1]。後に潁川郡太守に転じた。永平元年(508年)、潁川郡ごと梁に帰順した。翌年、北魏の長孫稚らに敗れる[2]と、家族とともに長江を渡り、南城県侯に封じられた。
天監14年(515年)、北魏の李平が硤石を攻撃し、梁の直閤将軍の趙祖悦を包囲すると、神念は朱衣直閤として昌義之の下で救援に向かった。神念は硤石の浮橋を攻撃したが落とせず、進軍をとめられたため、硤石は北魏の手に落ちた[3]。
神念は安成郡や武陽郡や宣城郡の内史を歴任し、いずれも治績を挙げた。建康に召還されて太僕卿に任じられた。持節・都督青冀二州諸軍事・信武将軍・青冀二州刺史として出向した。
普通年間に北伐が行われることになり、神念は建康に召還されて右衛将軍となった。普通6年(525年)、右衛将軍のまま使持節・散騎常侍・爪牙将軍に転じた。病にかかって没した。享年は75。本官のまま衡州刺史の位を追贈された。諡は壮といった。
人物・逸話
編集子女
編集- 王尊業(長男、太僕卿)
- 王僧弁(次男)
脚注
編集伝記資料
編集- 『梁書』巻39 列伝第33
- 『南史』巻63 列伝第53