王 毓芝(おう いくし、中国語: 王毓芝; 拼音: Wáng Yùzhī; ウェード式: Wang Yü-Chih)は、中華民国の政治家。直隷派指導者曹錕の腹心と目される文官である。蘭亭

王毓芝
Who's Who in China 3rd ed. (1925)
プロフィール
出生: 1878年光緒4年)[1]
死去: 1933年民国22年)
中華民国の旗 中華民国天津市
出身地: 清の旗 山東省済寧州
職業: 政治家
各種表記
繁体字 王毓芝
簡体字 王毓芝
拼音 Wáng Yùzhī
ラテン字 Wang Yü-Chih
和名表記: おう いくし
発音転記: ワン ユージー
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事績

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清末に曹錕の下で王毓芝は文牘(公文書)を処理する任に就き、その能力を曹に評価されて機要秘書に抜擢される。1912年民国元年)以降、東三省陸軍測絵学堂で書記官、文案、提調を歴任した。1914年(民国3年)4月、長江上遊警備総司令部秘書官を務めている。[2][3]

1916年(民国5年)9月、直隷督軍に任ぜられた曹錕の下で、王毓芝は直隷督軍署秘書、直隷省長公署秘書長を歴任した。1918年(民国7年)、北京政府が両湖宣撫使を設置、曹がこれに就任すると、王も第1路総司令部秘書官に任ぜられた。翌年、曹が川粤湘贛四省経略使に転じると、王もこれに従い秘書長となる。[2][3]

1920年(民国9年)8月、王毓芝は北京政府中央で幣制局副総裁に任ぜられ、1922年(民国11年)8月には全国煙酒事務署督弁となった。翌1923年(民国11年)6月から、曹が国会議員買収による大総統選出を狙うと(「賄選」)、王は実際にそのための事務に従事した。同年10月、曹錕は大総統に就任し、王は総統府秘書長に起用されている。1924年(民国13年)10月、北京政変(首都革命)により曹が失脚すると、王も秘書長から罷免されてしまい、以後政界から引退した。[2][3]1933年(民国22年)、天津市で病没。享年56。[2]

脚注

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  1. ^ 徐主編(2007)、165頁とWho's Who in China 3rd ed., 1925, p.840.による。山東省地方志弁公室ホームページは1875年光緒元年)生まれとしている。
  2. ^ a b c d 山東省地方志弁公室ホームページ。
  3. ^ a b c 徐主編(2007)、165頁。

参考文献

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  • 「王毓芝」「山東省情網」(山東省地方志弁公室ホームページ)内「山東省省情資料庫」
  • 徐友春主編『民国人物大辞典 増訂版』河北人民出版社、2007年。ISBN 978-7-202-03014-1 
  • 劉寿林ほか編『民国職官年表』中華書局、1995年。ISBN 7-101-01320-1 
   中華民国北京政府
先代
饒漢祥
総統府秘書長
1923年10月 - 1924年10月
次代
梁鴻志
(臨時執政府秘書長)