王 松年(おう しょうねん、生没年不詳)は、中国東魏から北斉にかけての官僚本貫太原郡晋陽県[1][2]

経歴

編集

王遵業の子として生まれた[3][4]高澄并州に入ると、招かれて主簿となった。通直散騎常侍に進み、李緯の副使として南朝梁に派遣された。帰国すると、尚書郎中となった。魏収が『魏書』を完成させると、松年はその内容を批判したため、文宣帝の怒りを買って解任され、杖罰を加えられた。1年あまりして赦免され、臨漳県令に任じられた。司馬・別駕・并州大中正に転じた。孝昭帝により給事黄門侍郎に抜擢され、政治や国事について帝の諮問に答えた。孝昭帝が死去すると、松年は遺詔をたずさえて鄴都に報告し、報告を終えると地に伏して慟哭して、百官を感動させた。晋陽に帰ると、侍中の位を兼ね、孝昭帝の遺体を守って鄴に送った。武成帝にも重用された。本官のまま散騎常侍の位を加えられ、高邑県を食邑とし、律令の制定に参加した。御史中丞を兼ねた。晋陽から鄴に向かう途中、病のために死去した。吏部尚書・并州刺史の位を追贈された。は平といった[5][6]

子の王劭が、名を知られた[7][6][8]

脚注

編集
  1. ^ 魏書 1974, p. 875.
  2. ^ 北史 1974, p. 1287.
  3. ^ 魏書 1974, p. 879.
  4. ^ 北史 1974, pp. 1291–1292.
  5. ^ 北斉書 1972, pp. 470–471.
  6. ^ a b 北史 1974, p. 1292.
  7. ^ 北斉書 1972, p. 471.
  8. ^ 『北斉書』王松年伝は「第三子卲」とし、『北史』王慧龍伝は「第二子劭」とする。『隋書』王劭伝は「王劭」とするが、その輩行は明らかではない。

伝記資料

編集
  • 北斉書』巻35 列伝第27
  • 『魏書』巻38 列伝第26
  • 北史』巻35 列伝第23

参考文献

編集
  • 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1 
  • 『魏書』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00313-3 
  • 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4