王子朝鮮人学校事件(おうじちょうせんじんがっこうじけん)とは、1951年昭和26年)3月7日東京都北区で発生した刑事事件である。

事件の発端

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1951年2月23日蒲田警察署占領目的阻害行為処罰令違反容疑で、東京都立朝鮮人中高等学校(今の東京朝鮮中高級学校)の生徒1人を検挙した。捜査の結果、当時のGHQが禁止していた「新朝鮮」「前進」「朝鮮女性」等のいわゆる反占領軍的な印刷物を作成していたことが判明し、2月28日に同校を家宅捜査し、証拠物件を押収した。

しかし、翌日3月1日三・一独立運動記念日であったため、朝鮮人たちは「不当弾圧」と激昂し、所轄の王子警察署に300人、隣の板橋警察署に400人、赤羽警察署に40人が押しかけて抗議した。

そして3月7日に「真相発表大会」と称する集会を学校内で開催、抗議デモを行うことになった。

事件の概要

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1951年3月7日当日、王子警察署は周辺の道路を封鎖し、同校生徒以外の群集の流入を阻止しようとしたが、群集はそれを無視し最終的に2000人が集まった。

集会は午前10時から始まった。一方、学校外にいた群集が警察隊に対し、投石や唐辛子粉の噴霧など抵抗したため、ある警察官が付近の民家の2階から写真を撮ろうとした。しかしそれを見た群集が民家に乱入、その警察官に暴行を加え、カメラを破壊した。

応援に来ていた蔵前警察署員が救出しようとしたが、逆に返り討ちにあい、重軽傷を負わされた上、拳銃警棒などが奪われた。

警視庁は、遂に群集を強制的に解散させることを決断、警官隊が校内に突入しようとした。群集は煉瓦や石を投げつけるなど強硬に抵抗したが、午後2時50分までに全員を校外に排除した。

警察はこの事件で28人が重軽傷を負った。

その後の顛末

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警察は、事件の関係者12名を公務執行妨害罪傷害罪暴力行為等処罰ニ関スル法律違反で逮捕し、うち6名が検察により起訴された。最終的には最高裁まで争われたが、5名が有罪となり確定した。(残りの1名は保釈中に逃亡した。)

参考文献

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  • 警視庁史(第4)』(警視庁史編さん委員会編 1978年)
  • 日本の中の三十八度線―民団・朝総連の歴史と現実―』(李瑜煥 1980年)

関連項目

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