王 士良(おう しりょう、507年 - 583年)は、中国北魏からにかけての軍人政治家は君明。本貫太原郡晋陽県

経歴

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蘭陵郡太守の王延の子として生まれた。530年爾朱兆[1]に召されて府参軍事となった。大行台郎中・諫議大夫を歴任して、石門県男に封じられた。紇豆陵歩藩と戦って敗れ、捕らえられて河右に連行された。紇豆陵伊利に才能を認められて、右丞に抜擢され、その孫娘を妻とした。士良は紇豆陵伊利らに利害を説いて、北魏に帰順させた。532年、晋陽県子に封じられた。まもなく琅邪県侯に進み、太中大夫・右将軍の位を受け、殷州車騎府司馬として出向した。

534年東魏に遷都すると、鄴に京畿府が置かれ、士良はそこで兵馬をつかさどった。高澄が大都督となると、士良はその下で司馬となり、外兵参軍を兼ねた。まもなく長史に転じ、安西将軍の位を加えられ、符塁県侯に徙封された。543年、行台左中兵郎中となり、大将軍府属・従事中郎に転じ、摂外兵事をつとめた。西魏王思政が潁川に駐屯すると、高澄は軍を率いて王思政を攻撃することとなり、士良を大行台右丞に任じて、并州で留守を守る高演を助けさせた。士良は鎮西将軍の位を加えられ、爵位は公に進んだ。

551年北斉が建国されると、士良は給事黄門侍郎となり、中書舎人を兼ね、総知并州兵馬事をつとめ、征西将軍の位を加えられ、新豊県子の別封を受けた。まもなく驃騎将軍・尚書吏部郎中に任じられた。北斉の文宣帝晋陽から鄴に移動すると、士良を尚書左丞として晋陽にとどめ、後事をまかせた。尚書左丞のまま御史中丞となり、七兵尚書に転じた。侍中となり、殿中尚書に転じた。しばらくして再び侍中となり、吏部尚書に任じられた。長らくしてまた侍中となり、度支・五兵二曹尚書をつとめた。

士良は継母の梁氏に孝事して知られたが、梁氏が死去すると辞職して喪に服した。まもなく文宣帝が復帰するよう再三命じてきたため、やむなく士良は召しに応じた。文宣帝は士良の痩せほそった姿をみて、士良の意志を尊重することとした。このときの服喪の影響で、士良は長年病に臥せり、文宣帝自らがかれを見舞った。病が快復すると、士良は滄州刺史に任じられた。559年、鄴に召還されて、儀同三司の位を受けた。561年、太子少傅・少師に任じられ、また侍中となり、太常卿に転じ、まもなく開府儀同三司の位を加えられた。豫州道行台・豫州刺史として出向した。

564年北周宇文護が東征し、権景宣が山南の兵を率いて豫州を包囲すると、士良は城を挙げて降伏した。大将軍・小司徒の位を受け、広昌郡公の爵位を受けた。まもなく荊州総管に任じられ、荊州刺史を代行した。長安に入ってまた小司徒となった。まもなく敷州刺史に任ぜられ、金州総管・七州諸軍事・金州刺史に転じた。579年[2]、并州刺史となった。上大将軍の位を加えられた。老病のため引退を願い出て、許された。583年6月26日、私邸で死去した。享年は77[3]

子の王徳衡は、580年に儀同大将軍となった。

伝記資料

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  • 周書』巻36 列伝第28
  • 北史』巻67 列伝第55
  • 大隋上大将軍広昌粛公墓誌(王士良墓誌)

脚注

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  1. ^ 墓誌による。『周書』や『北史』によると、ここは爾朱仲遠
  2. ^ 墓誌による。『周書』によると、577年。しかし577年当時の并州刺史は宇文神挙であった。
  3. ^ 墓誌による。『周書』や『北史』によると、581年に82歳で死去したこととされている。