王則
経歴
編集はじめ叔父で広平内史の王老生に従って征討にあたり、出陣するたびに戦功を挙げた。軍功により給事中に任じられ、白水子の爵位を受けた。後に元天穆に従って邢杲を討ち、軽騎で深入りして、邢杲に捕らえられた。永安2年(529年)、元顥が洛陽に入ると、王則と王老生はともに元顥に降ろうとしたが、元顥は王老生を疑って殺害した。王則は広州刺史の鄭先護のもとに逃れ、元顥に対して抵抗した。元顥が敗れると、王則は征虜将軍となり、東徐州防城都督として出向した[1][2]。
永安3年(530年)、爾朱栄が殺害されると、東徐州刺史の斛斯椿の一派は粛清をおそれて、梁の立てた魏主の汝南王元悦に降った。王則は蘭陵郡太守の李義とともに斛斯椿を攻撃して破った。このため王則は行北徐州事となった。後に爾朱仲遠に属し、爾朱仲遠が敗れると、高歓に帰順した。征南将軍・金紫光禄大夫の位を加えられた。荊州刺史の賀抜勝に従い、後に行台の侯景に従って転戦し、功績を挙げた[1][2]。
天平元年(534年)、東魏が建国されると、王則は行荊州事・都督三荊二襄南雍六州諸軍事・荊州刺史となった[1][2]。天平2年(535年)11月、梁の柳仲礼が荊州を攻撃すると、王則は牛飲でこれを破り、その部将の張殖と王世興を斬った[3][4]。天平4年(537年)の渭曲の戦いで、王則は西魏軍の包囲に迫られ、城を棄てて梁に逃亡した。まもなく梁から東魏へと身柄が返還されたが、高歓は王則を許して責めなかった。元象元年(538年)、洛州刺史に任じられた。洛州にあって収賄に明け暮れ、洛陽の銅像を奪っては壊して鑄銭をおこない、世に河陽銭と号した[5][2]。12月、西魏の是云宝に洛陽を襲撃されると、王則は逃走した[6][7]。武定年間、再び侯景に従って西魏を討った。武定5年(547年)、侯景が潁川で乱を起こすと、王則は高澄に召し出されて徐州刺史となった。梁が貞陽侯蕭淵明の率いる大軍を徐州に向けると、州城を水攻めにされたが、王則は堅く城を守った。不法行為のかどで、鎖を受けて晋陽に送られたが、高澄はその罪を許した。武定7年(549年)春、王則は48歳で死去した。都督青斉二州諸軍事・司空・青州刺史の位を追贈され、諡を烈懿といった[8][2]。
脚注
編集伝記資料
編集参考文献
編集- 『北斉書』中華書局、1972年。ISBN 7-101-00314-1。
- 『魏書』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00313-3。
- 『周書』中華書局、1971年。ISBN 7-101-00315-X。
- 『北史』中華書局、1974年。ISBN 7-101-00318-4。